<維新政府、変革の序章>第6回~戊辰戦争、敗者の側から

柴五郎の無念

  • 柴五郎(国立国会図書館ウェブサイトより)
    柴五郎(国立国会図書館ウェブサイトより)

 戊辰戦争の敗者には、新政府による処分が待っていました。

 69年1月に出された処分で、会津藩主・松平(まつだいら)容保(かたもり)は、「死一等を減じ(死罪を免れ)」鳥取藩に「永預(ながあずけ)(無期刑)」となる一方、同藩の領地はいったん没収されました。

 そして翌70年6月、同藩は青森・下北半島の斗南(となみ)移封(いほう)されます。石高はこれまでの23万石から3万石へと削られました。しかも斗南はやせた土地で、実収は7000石に過ぎなかったようです。

 藩士とその家族は、そうとは知らずに移住し、寒さと飢えに苦しむことになります。その悲惨極まる生活は、『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』(石光真人編著、中公新書)によって明らかです。

 柴五郎(しばごろう)(1859~1945年)は、晩年、戊辰戦争での「薩長の狼藉(ろうぜき)」に対して、「いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜(くや)しきことかぎりなく、心を悟道(ごどう)に託すること(あた)わざるなり」と、血涙(にじ)む、この書を残しました。

 会津戦争で自刃した祖母と母、姉と妹の遺骨を、瓦礫(がれき)の中から拾ったという柴は、江戸の捕虜収容所で生活した後、斗南地方に送られます。それは、柴の言葉を借りれば、「挙藩流罪という史上かつてなき極刑」というべきものでした。

 その後、柴は上京して、下僕(げぼく)生活の末、「陸軍幼年生徒隊」(幼年学校の前身)の試験に合格してチャンスをつかみます。大本営参謀やイギリス・清国公使館付武官などを歴任し、最後は陸軍大将として台湾軍司令官をつとめました。

 兄の一人が、小説『佳人之奇遇(かじんのきぐう)』を書いた柴四朗(東海(とうかい)散士(さんし))です。この長編は、会津藩の悲劇を知る日本人青年が、アメリカでアイルランドの独立運動の闘士らと出会って、世界の弱小民族のために連帯を誓い合う政治小説でした。

 政府の東北諸藩に対する処分をみると、仙台は62万5千石から28万石に、長岡は7万4千石から2万4千石に、庄内は17万石から12万石に、米沢は18万石から14万石に、それぞれ削封されました。戊辰戦争での抵抗ぶりや降伏時の対応などが斟酌(しんしゃく)されたようですが、それにしても会津処分の過酷さが際立ちます。

 一方で、政府は69年7月、鳥羽・伏見の戦い以降の「戦功」を賞します。藩主では、島津久光父子(薩摩)、毛利敬親父子(長州)に各10万石、山内豊信父子(土佐)に4万石などが支給されたのです。

 なお、会津藩主・松平容保は80年2月、日光東照宮の宮司となり、余生を全うします。

「一山百文」と原敬

  • 原敬(国立国会図書館ウェブサイトより)
    原敬(国立国会図書館ウェブサイトより)

 柴の3歳年長に、盛岡(南部)藩の上級武士の家に生まれた(はら)(たかし)(1856~1921年)がいます。

 盛岡藩も戦後、20万石から13万石に削減されました。いったん白石に移され、旧領の盛岡に復帰を果たしますが、政府がその際の条件として要求した70万両が調達できず、廃藩に追い込まれました。

 原は、新聞記者から外交官に進んだあと、政界に転じ、1918(大正7)年9月、政友会総裁として日本初の政党内閣を組織します。華族でも、藩閥でもなかったことから「平民宰相」と呼ばれました。東北出身では初の首相でした。

 戊辰戦争で「官軍」の薩摩・長州藩は、「朝敵」の東北諸藩を「白河以北(しらかわいほく)一山百文(ひとやまひゃくもん)」とさげすみました。「白河の関(福島県白河市)以北は、一山百文の値打ちしかない」というわけです。

 ところが、政界の実力者となった原は、俳号(はいごう)に、その蔑称の中の言葉である「一山(いっさん)」を用い、時に「東夷(とうい)迂人(うじん)(東国の野蛮で、世間の事情にうとい人)」と記すこともありました。

  • 盛岡市の報恩寺山門
    盛岡市の報恩寺山門

 原が政権に就く1年前の17年9月、盛岡市の報恩寺で「南部藩戊辰戦争殉難者五十年祭」が開かれました。来賓として出席した原は、次のような祭文を読み上げました。

 「(かえり)みるに、昔日(せきじつ)もまた、今日のごとく国民誰か朝廷に弓を引く者あらんや。戊辰戦役は政見の異同のみ、当時、勝てば官軍、負くれば賊軍との俗謡(ぞくよう)あり。その真相を語るものなり。今や国民聖明(せいめい)(たく)に浴し、この事実、天下に明らかなり。諸子をもって(めい)すべし。余たまたま郷にあり、この祭典に列する栄を(にな)う。即ち赤誠(せきせい)披瀝(ひれき)して、諸子(しょし)の霊に告ぐ」

 報恩寺は、維新政府から「反逆首謀」者として名指しされた南部藩家老・楢山(ならやま)佐渡(さど)が切腹に処せられた場所です。原は、祭文を読むのを一度は断りましたが、その日の朝になってにわかに起草し、自らの考えを明らかにしました(『原敬日記』)。それは「勝てば正義」として敗者を処断しつくしてきた薩長流の歴史観や、その後の藩閥政治に対する鋭い批判といえました。

次郎長の義侠心

 戊辰戦争の戦死者は、新政府軍は3550人、反政府軍は4690人とされています。

 反政府軍では、会津藩が2557人と最も多く、次いで仙台藩831人。政府軍では、薩摩藩514人、長州藩427人などとなっています。死者数からみても、会津攻防戦が最大の戦いであったことがわかります。(『明治史要付録表』)

 幕府側の死者の中には、「咸臨丸」事件の兵士たちもいました。

  • 咸臨丸は69年から北海道開拓使所属の運送船となり、その後、民間の手にわたり、71年、函館から小樽に向かう途中、座礁し沈没した。その終焉の地、北海道木古内町にある同船のモニュメント
    咸臨丸は69年から北海道開拓使所属の運送船となり、その後、民間の手にわたり、71年、函館から小樽に向かう途中、座礁し沈没した。その終焉の地、北海道木古内町にある同船のモニュメント

 咸臨丸とは、1860年、勝海舟や福沢諭吉を乗せて太平洋を渡った、あの徳川幕府の軍艦にほかなりません。同艦は68年10月、旧幕府の榎本武揚艦隊に加わって箱館に向かう途中、嵐に遭って流され、駿府の清水港への避難を余儀なくされました。

 11月初め、政府軍艦が咸臨丸を砲撃し、多数の兵士が死亡し、遺体が港内に遺棄されました。事件直前の7月、駿河藩(70万石、のち静岡藩)に移封されたばかりの徳川家も、微妙な時期だけに、旧家臣らの死体に全く手を出しません。

 ここで義侠心(ぎきょうしん)を発揮したのが、清水港を支配していた大親分・清水(しみずの)次郎長(じろちょう)(1820~93年)でした。

  • 清水次郎長(国立国会図書館ウェブサイトより)
    清水次郎長(国立国会図書館ウェブサイトより)

 戊辰戦争では「朝敵」とされた兵士を(まつ)ることは、新政府によって禁じられていたといわれます。しかし、次郎長は、敵兵の死体を海上に遺棄するという「不仁」を正して「仁」を為す――すなわち人道主義の立場から、遺体を無断で収容すると、港外の土中に埋めて弔いました。

 思えば、鳥羽・伏見の戦いで敗れた会津藩などの兵士の遺体を葬ったのは、京都の博徒・会津(あいづの)小鉄(こてつ)でした。また、箱館五稜郭で戦死して棄てられた旧幕府軍の兵士を埋葬し、慰霊碑を建てたのは、箱館の博徒・柳川(やながわ)熊吉(くまきち)でした(高橋敏著『清水次郎長』)。


失意のロッシュ

 68年6月、一人の外交官が失意のうちに横浜港から帰国しました。フランス公使のロッシュです。

 ロッシュは、これに先立つ同年2月、鳥羽・伏見の戦いから江戸城に逃げてきた慶喜を訪ね、「フランスとして助力を惜しまないので再挙をはかってほしい」と求めました。

 慶喜は「天皇に対して戦争をするのは、先祖伝来の領地を防衛するのを目的とするだけ」と含みのある発言をしましたが、「退隠」する決意は変わりませんでした。ロッシュが精魂を傾けてきた幕府支援戦略は、ここに破綻しました。

  • 横須賀製鉄所の製鋼所と着船場(1868年、横須賀市市史資料室提供)
    横須賀製鉄所の製鋼所と着船場(1868年、横須賀市市史資料室提供)

 しかし、ロッシュが在任中、旧幕府の親仏派とともに取り組んだ横須賀製鉄所の建設やフランス軍事顧問団の招聘(しょうへい)は、その後の明治の帝国陸海軍の基盤を形成しました。

 一方、ロッシュの宿敵だったイギリス公使のパークスは、江戸開城後の同年5月22日、各国に先がけて大阪で信任状を天皇に提出し、新政府を承認しています。

 ビクトリア英女王の誕生日にあたっていた翌23日、大阪に停泊するイギリス艦隊で盛大な祝賀会が開かれました。主賓の日本政府外国事務局督の山階宮(やましなのみや)(あきら)親王は、「女王陛下の健康のために乾杯」と声をあげ、パークスを大いに喜ばせました。

 幕末に展開された英仏両国のつばぜりあいに関連して、ハーバード大学のアンドルー・ゴードン教授は、1860年代半ば、幕府と雄藩との争闘の行方を占う「外交官たちの賭け」は分かれていたと書いています。

 そして「イギリスは、表向きは中立の立場をとったが、イギリス外交団の代表は、造反していた外様の諸藩と非公式な関係を維持し、一部のイギリス商人はこれら諸藩を直接支援した。フランスは、西洋の外交・経済秩序への日本の参加プロセスを、自分たちの手で管理することを目指した幕府内の改革派を後押しした。結果は、賭けを分散して抜け目のないギャンブラーぶりを発揮したイギリスに軍配があがった」(『日本の200年 徳川時代から現代まで』森谷文昭訳、みすず書房)と分析しています。

それからの慶喜

  • 狩猟姿の徳川慶喜(茨城県立歴史館蔵)
    狩猟姿の徳川慶喜(茨城県立歴史館蔵)

 静岡に移住した徳川慶喜(よしのぶ)(1837~1913年)は、30年近くここで隠居生活を送ります。趣味の狩猟やカメラを楽しみ、豚肉を好んで食べて「豚一様」とあだ名をつけられるなど、ともかく新奇なものを好んだようです。また、2人の女性との間に10男11女をもうけました。

 1891年7月23日の読売新聞は、「慶喜公の近状」として「折々は、釣竿(つりざお)を携えて清水港」に遊び、「世事の問題などについては口外せられず、ひたすら閑日月(かんじつげつ)(たのし)まるるものの如し」と伝えています。

 戊辰戦争から30年の98年3月、慶喜は、かつての江戸城である皇居で、明治天皇に面会します。天皇と皇后は、慶喜を快くもてなしました。

 これによって「名誉回復」を果たした慶喜は、東京に移って宮中行事にも出席するようになり、東宮明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)親王(のちの大正天皇)とも親しくなります。

 1902(明治35)年6月、慶喜は、特例として華族に列せられ、公爵にもなって政治的にも復権します。08年には、勲一等旭日大綬章を授与されます。

 慶喜は、鳥羽・伏見の戦いで大阪城から遁走(とんそう)したことを「末代までの恥辱なり」(新選組局長・近藤勇)などと批判されました。しかし13年、慶喜が波乱の生涯を閉じた際の読売新聞は、こんなふうに論じています。

 「幕末の公の出処進退は、議論なきにあらずといえども、当時よく天下の大勢を達観し、自ら紛糾せる時局の外に、超越してその一身を保つと同時に、一国に対する奉公の道をも(あやま)たざりしものなり」

 明治維新から半世紀を経て、慶喜は「勤王の志に厚い、模範的大人物」として維新の功労者になっていたのです。そして明治150年を前に、歴史家の間では、明治国家の近代化路線は、薩長政権に先立つ、慶喜の時代に定まったと評価されるようになりました。

【主な参考・引用文献】
▽星亮一『奥羽越列藩同盟―東日本政府樹立の夢』(中公新書)▽家近良樹『その後の慶喜―大正まで生きた将軍』(ちくま文庫)▽佐々木克『戊辰戦争―敗者の明治維新』(中公新書)▽小島英記『幕末維新を動かした8人の外国人』(東洋経済新報社)▽石井孝『増訂 明治維新の国際的環境』(吉川弘文館)▽松浦玲『徳川慶喜―将軍家の明治維新』(中公新書)▽高橋敏『清水次郎長―幕末維新と博徒の世界』(岩波新書)▽伊藤之雄『原敬―外交と政治の理想』上・下(講談社選書メチエ)▽秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会)

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プロフィル
浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。