<維新政府、変革の序章>第8回~ビスマルクとガリバルディ

統一国家・ドイツ

  • 鉄血宰相ビスマルク
    鉄血宰相ビスマルク

 日本の明治初期、我が国と同じように近代的な統一国家を形成した国が、ヨーロッパにありました。ドイツとイタリアです。

 ドイツ北東部のプロイセンでは、1861年、王位に就いたヴィルヘルム1世が、ドイツ統一に乗り出します。翌62年、首相に任命したのが、ユンカー(領主貴族)出身のビスマルク(1815~98年)でした。

 日本の幕末期にあたり、同年、薩摩藩・島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷される「生麦事件」が起きるなど、日本では攘夷(じょうい)の嵐が吹いていました。

 ビスマルクは首相就任直後、下院の予算委員会で次のような演説をしました。

 「現下の大問題は、言論や多数決によっては解決されません。1848年と1849年の過ちはそこにありました。それは、鉄と血によってのみ解決されるのです」

 彼は、「鉄(武器)と血(兵士)」によってドイツの統一を図るという、この演説によって、「鉄血宰相」の異名をとることになります。

 ここでビスマルクの言う48~49年には、フランスで発生した「2月革命」(48年2月)が、ドイツ連邦(オーストリア、プロイセンなどの王国や中小諸邦、独立都市で構成された国家連合組織)にも波及し、ウィーンでは民衆が蜂起してメッテルニヒが失脚、プロイセンでは自由主義的内閣が成立(3月革命)しました。

 ドイツでは既に34年、プロイセン主導により、加盟国間の関税をなくす「関税同盟」が結成されて以降、統一への動きが出ていました。3月革命の際は、フランクフルト国民議会で統一の機運が高まりましたが、オーストリア中心の統合をめざす「大ドイツ主義」と、プロイセン中心の「小ドイツ主義」が対立し、失敗に終わりました。

 ビスマルクは64年、オーストリアと結んで、領地の帰属をめぐって係争中だったデンマークを攻撃して勝利を得ます。ところが66年、今度はオーストリアと戦端を開き、参謀総長モルトケの指揮の下、わずか7週間でオーストリアを打ち破りました。

 このあと、ドイツ連邦は解体され、67年には、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦が結成されます。ドイツから外されたオーストリアは、「オーストリア・ハンガリー帝国」を作ります。

  • ヴェルサイユ宮殿で行われたドイツ皇帝の即位式(「帝国成立宣言」、アントン・フォン・ヴェルナー作)
    ヴェルサイユ宮殿で行われたドイツ皇帝の即位式(「帝国成立宣言」、アントン・フォン・ヴェルナー作)

 さらに、ビスマルクは、スペインの王位継承問題に関与してフランスと対立し、70年7月、フランスとの戦争(普仏戦争)に突入し、71年1月にはパリを陥落させ、ナポレオン3世を捕虜にします。

 ドイツは、多額の賠償金とアルザス・ロレーヌ地方の割譲を受け、対仏戦争に加わった南ドイツ諸邦の合意を得て、ドイツ統一に成功します。

 ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式は、同月18日、パリのヴェルサイユ宮殿で挙行されました。

鉄血宰相・ビスマルク

 岩倉具視をトップとする日本の米欧使節団がベルリンに到着したのは、それから2年余り経った73年3月のことでした。

 一行は同月15日、さっそくドイツ帝国宰相・ビスマルクの招宴に臨みます。

 久米邦武編著『米欧回覧実記』によれば、そこでビスマルクは、おおむね以下のような演説をしました。

 「世界各国は親睦の念と礼儀を保ちながら交際しているが、これは全くの建前であって、裏側では強弱のせめぎ合いがあり、相互不信がある」

 「万国公法(国際法)も、大国は自分に利益があれば守るけれども、不利となれば、軍事力にものを言わせるので、公法を常に守ることなどありえない。小国は一生懸命、公法を無視しないように努力するが、力任せの政略に自分の立場を守れないことはよくあることだ。私は、そのような我が国の状態に憤慨し、いつか国力を強化し、どんな国とも対等の立場で外交しようと考え、愛国心を奮い立たせて行動すること数十年、ようやくその望みを達した」

 「英仏両国は、海外植民地で搾取しており、ヨーロッパの平和外交など信用するわけにはいかない。皆さんもひそかな危惧を捨て去ることが出来ないのではないか。国権と自主を重んじるドイツこそ、日本にとって最も親しむべき国であろう」

 ビスマルクの人間的な迫力と説得力のある弁舌、とくに、日本政府が幕末以来あがめてきた「万国公法」は、目的のために利用する代物であり、最後は「力」がものを言うのだ、というビスマルクの話は、使節団メンバーの木戸孝允や大久保利通らに強い衝撃を与えたようです。

桂太郎のドイツ留学

  • 桂太郎(国立国会図書館ウェブサイトから)
    桂太郎(国立国会図書館ウェブサイトから)

 岩倉使節団が訪問したベルリンには、のちの内閣総理大臣・(かつら)太郎(たろう)(1848~1913年)が留学していました。桂は、明治後期から大正初年にかけて3度も組閣し、首相在任期間が通算で2886日と8年近く宰相の座にあった人です。

 桂は長州出身で、「ニコポン」(にっこり笑ってポンと肩をたたく)の流儀で相手を丸め込む、調整型の政治家、軍人というイメージが強いのですが、日英同盟の締結や日露戦争、韓国併合など日本近代史を画する出来事は、いずれも桂内閣時代のことです。

 戊辰戦争で東北各地を転戦した桂は1870年、賞典禄(戦争の功労に対して与えられた賞与)を使ってフランス留学に向かいます。ところが、プロイセン・フランス戦争のために、ロンドンで足止めをくい、そこでプロイセンの勝利を知ると、一転、留学先をプロイセンに変更します。

  • ドイツ留学時代の青木周蔵(那須塩原市教育委員会提供)
    ドイツ留学時代の青木周蔵(那須塩原市教育委員会提供)

 桂は3年半、軍事学を学んで73年に帰国、陸軍に入り、75年にはドイツ公使館付武官としてドイツに赴任。軍政の調査・研究にあたり、帰国後は、山県有朋陸軍(りくぐん)(きょう)(陸軍省長官)の庇護(ひご)を受けてドイツを模範とする軍制改革を進めることになります。

 兵部省は、70年に兵制のモデルを、陸軍はフランス、海軍はイギリス式にしましたが、普仏戦争を契機に陸軍は範をプロイセンにシフトさせます。桂はまるで陸軍の「ドイツ傾斜」を先取りするかのように留学先を変えたことになります。

 桂よりも早くプロイセンに留学していたのが青木(あおき)周蔵(しゅうぞう)(1844~1914年)です。

 青木は68年に医学修業のため、長州藩留学生としてベルリンに来ましたが、政治・経済学を学んで外務省に入ります。74年には最初のドイツ公使になり、ドイツ貴族の娘と結婚、我が国指折りのドイツ通の外交官として、懸案の条約改正問題にあたります。

赤シャツの革命家

 イタリアでも、分裂した国々を統一させる運動(リソルジメント=再興=運動)が続けられていました。

 1848年の2月革命時には、各地で反乱・抵抗運動が発生するなど独立・統一の動きが強まりました。中でもイタリア半島北部にあるサルデーニャ王国の国王が、オーストリア支配からの解放を期して開戦しましたが、大敗に終わります(第1次独立戦争)。

 他方、共和主義者のマッツィーニ(1805~72年)が率いていた「青年イタリア」は、ローマ共和国の建国を宣言しました。しかし、これもフランス軍によって鎮圧されてしまいます。

 49年3月、サルデーニャ王国では、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が新しく即位し、52年11月、首相にカヴール(1810~61年)を任命しました。

 カヴールは、オーストリアとの敗戦を教訓に、巧みな外交術でフランスのナポレオン3世に近づきます。イギリス・フランスとロシアとのクリミア戦争では、あえて英仏側に立って参戦して勝利し、講和会議において国際的な存在感を示します。

  • ガリバルディ
    ガリバルディ

 カヴールは58年7月、ニースとサヴォイアをフランスに割譲するかわりに、イタリア統一運動への支援を受ける密約を交わして、オーストリアと開戦し、フランスの援軍を得てオーストリア軍を破りました(第2次独立戦争)。

 60年3月、中部イタリアの諸邦はサルデーニャ王国に併合されます。しかし、南イタリアには、スペインのブルボン王家が支配する両シチリア王国(首都ナポリ)が健在でした。このイタリア半島で最大の王国を併合しなければ、イタリア統一は完成しません。

 ここで表舞台に登場するのが、「青年イタリア」出身の赤シャツの戦士・ガリバルディ(1807~82年)です。第1次独立戦争からずっと戦士であり続けた彼は、約1000人からなる義勇軍(千人隊)を率い、シチリア島から南部イタリアに上陸し、両シチリア王国を征服し、61年3月、イタリア王国が成立しました。

 66年にはオーストリア領だったヴェネチアを併合し、70年にはローマ教皇領も編入して国家統一が実現します。

西郷隆盛との相似性

  • 米欧回覧実記のローマの項(国立国会図書館ウェブサイトから)
    米欧回覧実記のローマの項(国立国会図書館ウェブサイトから)

 岩倉使節団は、73年5月にイタリアを訪問しました。

 一行は、ルネッサンス文化が香る「花の都」フィレンツェ、コロッセオ(円形闘技場)などの遺跡や彫刻が古代文明をしのばせるローマ、「ナポリを見てから死ね」とうたわれた風光明媚(めいび)なナポリ、ヴェスヴィオ火山の大噴火で埋没した古代都市・ポンペイ、ゴンドラが運河を行き交う「水の都」ヴェネチアなど、今日でも代表的な観光ルートを周遊します。

 当時のイタリアの「再興」と日本の「維新」は、国柄の違いなどから同一視できません。ただ、同じ時期の出来事だけに、使節団の中には、革命に火を付けた国として<薩摩・長州藩=サルデーニャ王国>、人物として<日本の志士たち=イタリアの独立運動家>に共通性を感じた人もいたようです。

 とくに久米の『米欧回覧実記』は、ガリバルディこそ、イタリア統一の「大勲業」を立てた「当世の偉人」であり、武力でイタリアを鎮定(ちんてい)、「公論」によってサルデーニャ王を奉じて「立憲の政治を建てた」と称賛しています。

 イタリアで「建国の三傑」にあたるマッツィーニ、カヴール、ガリバルディについては、明治時代、日本のさまざまな論者が取り上げています。

  • 三宅雪嶺(国立国会図書館ウェブサイトから)
    三宅雪嶺(国立国会図書館ウェブサイトから)

 中でもジャーナリスト・三宅(みやけ)雪嶺(せつれい)(1860~1945年)は、<西郷隆盛とガリバルジー>と題して、それぞれ日本とイタリアの「統一」を図った両雄の比較論を書いています。

 この中で三宅は、国家統一のあと、「一切の名誉、一切の俸禄を放擲(ほうてき)」して飄然(ひょうぜん)として遠く去ったガリバルディと、「維新の功業を大成しながらも、衣冠(いかん)一擲(いってき)」して故郷に帰農した西郷は、全く同じだと指摘し、功なり名を遂げたあとの「東西英雄」の見事な進退をたたえています。

 また、歌人・与謝野(よさの)鉄幹(てっかん)(1873~1935年)は1899年、有名な「友(あるいは人)を恋ふる歌」の7番で、<妻子(つまこ)をわすれ家を捨て/義のため(はじ)を忍ぶとや/遠くのがれて腕を()す/ガリバルヂーやいま如何(いかん)>(「加羅文庫」)とうたいました。

 日本では明治前期、こうしてイタリアへの関心が高まります。ただ、富国強兵・殖産興業という日本近代化のモデルという点では、工業力・軍事力でイタリアに勝るドイツの方に軍配があがります。

「藩閥政府」発足

 さて、明治国家としてスタートした日本政府は、廃藩置県後、政府組織・人事の再編に動きます。1871(明治4)年9月、これまでの太政(だじょう)官制(かんせい)を改め、正院(せいいん)左院(さいん)右院(ういん)の三院制としました。

 正院は、政治の最高機関として、太政大臣・左大臣・右大臣・参議で構成し、その下に神祇(じんぎ)・大蔵・兵部・外務・文部・工部・司法・宮内の8省と開拓使を置きました。

  • 三条実美(国立国会図書館ウェブサイトから)
    三条実美(国立国会図書館ウェブサイトから)

 太政大臣は三条(さんじょう)実美(さねとみ)、右大臣に岩倉具視、参議には薩摩藩の西郷隆盛、長州藩の木戸孝允に加えて、土佐藩の板垣退助と肥前藩の大隈重信が就任しました。

 このほか、各省の(きょう)(長官)と大輔(たいふ)(次官)には、薩摩藩から大久保利通、黒田清隆、長州藩からは伊藤博文、井上(かおる)、山県有朋、土佐藩からは後藤象二郎、佐々木高行、肥前藩からは大木喬任(たかとう)副島(そえじま)種臣(たねおみ)、江藤新平らが登用されました。

 この顔ぶれをみると、これまで要職についていた公家や旧藩主は、三条、岩倉を除いて排除されており、薩摩・長州・土佐・肥前の「薩長土肥」4藩の士族に権力が集中する「藩閥政府」と呼ばれる体制が浮かび上がります。

 もはや「志士の時代」は終わりました。「藩・藩主離れ」した彼らは、天皇の朝臣(あそみ)=「維新官僚」として、旧体制を打破し、明治政府を強化するための施策の実行者になります。

 12月には、すでに言及しました岩倉を特命全権大使とし、木戸、大久保、伊藤らが参加する、大規模な政府使節団がアメリカ・ヨーロッパに旅立ちました。

 一方、その留守居役の西郷、大隈、板垣らの「留守政府」は、学制改革や徴兵令の施行、地租改正、太陽暦の採用などさまざまな改革に着手することになります。

 【主な参考・引用文献】

▽飯田洋介『ビスマルク――ドイツ帝国を築いた政治外交術』(中公新書)▽藤澤房俊『ガリバルディ――イタリア建国の英雄』(同)▽久米邦武編著『特命全権大使 米欧回覧実記(現代語訳)』(訳注・水澤周、慶応義塾大学出版会)▽千葉功『桂太郎――外に帝国主義、内に立憲主義』(中公新書)▽『日本の名著37 陸羯南・三宅雪嶺』(中央公論社)▽田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽泉三郎『岩倉使節団』(祥伝社黄金文庫)▽阿部謹也『物語ドイツの歴史――ドイツ的とは何か』(中公新書)▽石附実『近代日本の海外留学史』(中公文庫)▽南塚信吾ら『新しく学ぶ西洋の歴史』(ミネルヴァ書房)▽木下康彦ら編『詳説 世界史研究』(山川出版社)

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プロフィル
浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。