<米欧回覧と文明開化>第8回~副島種臣の「国権外交」

旧佐賀藩の系譜

  • 副島種臣(国立国会図書館ウェブサイトから)
    副島種臣(国立国会図書館ウェブサイトから)
  • 鍋島直正(国立国会図書館ウェブサイトから)
    鍋島直正(国立国会図書館ウェブサイトから)

 岩倉使節団の特命全権大使になった岩倉具視外務卿(外務大臣)の後任は、副島(そえじま)種臣(たねおみ)(1828~1905年)でした。使節団が出発直前の1871(明治4)年12月に就任し、73年10月の「明治六年政変」(「征韓論政変」)を機に辞めましたので、まさに留守政府の外相をつとめたことになります。

 副島は旧肥前佐賀藩士。佐賀藩は、武士道を論じた『葉隠(はがくれ)』で知られますが、幕末から明治にかけて政治を主導した「薩長土肥(薩摩、長州、土佐、肥前)」4藩の中では、いささか影の薄い存在です。それは、32年に藩主に就いた鍋島(なべしま)直正(なおまさ)閑叟(かんそう)、1814~71年)が、佐幕か勤皇かの旗幟(きし)を鮮明にせず、日和見(ひよりみ)主義者とみられたことが一因とされます。薩長軍が徳川軍と戦った鳥羽・伏見の戦いでも直正らは参加せず、出遅れました。

 しかし、続く上野戦争や会津の攻防戦では、佐賀藩が保有していた近代兵器が威力を発揮し、その軍事的貢献によって、薩長土肥の一角に食い込むことができました。

 佐賀藩は鎖国期、世界への窓口だった長崎港の警備を担当していました。直正は、イギリス軍艦フェートン号による長崎港乱入事件(1808年)を教訓に、国防強化につとめ、高島(たかしま)秋帆(しゅうはん)流の砲術を採用し、鉄製の洋式大砲の製造や反射炉の建設を推進しました。

 やがて同藩は、「天下の兵器(へいき)(しょう)」と呼ばれるようになり、近代科学・軍事技術では抜きん出た藩として存在感を示します。

  • 副島種臣の書(国立国会図書館ウェブサイトから)
    副島種臣の書(国立国会図書館ウェブサイトから)

 同時に直正は、人材育成にも目を配り、同藩からは、副島をはじめ、大隈重信、大木喬任、江藤新平、さらに岩倉使節団の副使だった山口尚芳、『米欧回覧実記』を著した久米邦武らを輩出します。久米は『鍋島直正公伝』(全7巻)という著作も残しています。

 副島は、漢学、国学、洋学の素養があり、能筆としても知られていました。「王政復古の大号令」の直後、岩倉具視、西郷隆盛らとともに新政府の参与に命じられ、政府組織を定めた「政体書」などを起草し、69年には要職の参議に就任します。

 そして2年後、外務卿として揺籃(ようらん)期の日本外交を担い、国威を海外に輝かすという、いわゆる「国権外交」を展開することになります。


揺籃期の明治外交

 岩倉使節団が訪れる前の欧米情勢は、目まぐるしく動いていました。戦争だけみても、53年からのクリミア戦争に始まり、アメリカの南北戦争、プロイセン=オーストリア戦争、プロイセン=フランス戦争などが続き、77~78年にはロシア=トルコ戦争が起きます。この間、イタリア王国(61年)、ドイツ帝国(71年)がそれぞれ誕生しました。

 日本史を重ね合わせてみますと、ペリーが来航したのは53年、日米修好通商条約の締結が58年、明治改元は68年のことです。日本列島には、南からイギリス、フランスが北上し、北からはロシアが南下し、東からはアメリカの波が押し寄せ、西には強国の(しん)が座したまま、対外関係は絶えざる緊張の中にありました。日本政府は、この東西南北の圧力から我が国領土の防御を固めなければなりませんでした。

 もちろん、最大の外交テーマは、多数の欧米諸国と結ばされた不平等条約の改正でした。岩倉使節団はアメリカ・ヨーロッパに、そのための環境整備に出かけていったのです。

 これに対して、留守政府は、江戸時代に貴重な対外窓口として機能していた琉球(りゅうきゅう)(沖縄)の日清両属関係をどう再編・整理するか、対馬藩が担当していた対朝鮮外交を維新政府にいかに移行するかの難題を抱えていました。 

 ロシアとの間では樺太(サハリン)の帰属問題でもめていました。樺太は、日露和親条約(1855年)で国境を画定できず、その後も日露両属のまま、南下を続けるロシア人による、日本人漁民に対する暴行や殺人、放火事件などが絶えませんでした。

  • ニコライ(国立国会図書館ウェブサイトから)
    ニコライ(国立国会図書館ウェブサイトから)

 これを懸念した日本政府は、参議だった副島をロシア沿海州のポシエットに派遣して事態打開を図ろうとしますが、訪露は実現せず、結局、72年5月に着任したロシア初の駐日代理公使・ビュツオフと、外務卿に就いた副島との間で交渉が始まりました。

 このころ、副島は、布教の本拠地を函館から東京・神田駿河台に移し、やがて同地に「ニコライ堂」を建設する、ロシアの宣教師・ニコライ(1836~1912年)とも交流を深めるなど、別ルートからも解決につとめていたようです。しかし、日本側が提起した樺太買収案は、ロシア側の受け入れるところとならず、決着しませんでした。


人道性アピール―マリア・ルス号事件

  • 荷物を運ぶクーリー(1895年に中国で撮影、米国議会図書館蔵)
    荷物を運ぶクーリー(1895年に中国で撮影、米国議会図書館蔵)

 72年7月9日、日本を舞台に国際的な事件が発生しました。

 悪天のため横浜に寄港したペルーの帆船「マリア・ルス号」から、清国人苦力(クーリー)(奴隷状態の下層労働者)が逃亡し、イギリス軍艦に保護されたのです。

 イギリスの駐日代理公使・ワトソンは、副島に対し、苦力虐待事件を究明するよう求め、イギリスとして全面協力を約束しました。8月4日、神奈川県権令(ごんれい)の大江(たく)(1847~1921年)を裁判長とする臨時法廷が県庁に設置されます。

 各国領事立ち会いの下、審理は速やかに進められ、大江裁判長は8月30日、船長については、「罰は(じょう)(むち打ち)百に相当」するが、「寛典(かんてん)」をもって「赦免(無罪)」の判決をくだしました。

 船長が苦力を相手取って起こした移民契約不履行の訴訟では、9月27日、「契約は非人道的であり、無効である」との判断を示しました。231人の苦力たちは解放され、清国に引き渡されます。

  • 大江卓(国立国会図書館ウェブサイトから)
    大江卓(国立国会図書館ウェブサイトから)

 副島は、裁判記録を英文の冊子にして、日本の正当性を各国にアピールしました。

 この事件の判決は、「日本の法権の独立を主張した点」や、「明治政府の人道的な立場を鮮明にした点」など、「日本の対外関係史上、画期的」だった(萩原延壽『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄10』)と高く評価されています。

 ペルーの全権公使は73年3月31日、日本政府に事件の損害賠償を要求します。日本側は拒否し、裁決をロシア皇帝のアレクサンドル2世に委ねることになりました。75年5月、皇帝は、日本に賠償責任はない旨を裁定し、事件は落着します。

 日本政府は国内の裁判で、ペルー側の弁護士から、娼妓(しょうぎ)の「年季証文」など、「日本にも人身売買があるではないか。日本政府に今回の事件を裁く資格はない」と反撃され、苦しい弁明を強いられました。

 このため、江藤新平が率いる司法省は72年11月、人身売買の禁止と娼妓の年季奉公禁止などを早々に命じました。

副島の清国訪問

 副島は、近隣のアジア外交にも取り組みます。

  • 同治帝
    同治帝

 とくに台湾、琉球、朝鮮をめぐる問題は、いずれも、清国と深いかかわりがありました。

 政府は73(明治6)年2月28日、特命全権大使として副島を清国に派遣することを決定します。

 その公式の任務は、日清(にっしん)修好(しゅうこう)条規(じょうき)批准書の交換と、清朝・同治帝(どうちてい)の親政、成婚をお祝いする天皇の親書を届けることでした。

 当時の清朝は、第2次アヘン戦争後に漢人官僚の曾国藩(そうこくはん)李鴻章(りこうしょう)らが進めた「洋務運動」(近代化政策)が成功を収めていました。独裁体制を固めた西太后(せいたいこう)の息子の同治帝が72年に結婚し、73年2月に18歳で親政を開始しました。

 日清修好条規は71年9月、大蔵卿(おおくらきょう)伊達(だて)宗城(むねなり)と清朝の李鴻章との間で調印されました。李は70年に清朝政権の中枢を握る直隷総督になり、軍事も外交も内政も担当する実力者でした。李の外交の初仕事がこの日清修好条規の締結でした。

 条約は、西洋諸国との間で不平等条約を結ばざるをえなかった日清両国が、相互に開港して、領事裁判権を認め合う「対等」なものでした。副島は73年4月30日、天津で李鴻章との間で批准書を交換します。

「跪拝の礼」拒絶

  • 清の乾隆帝に謁見する英外交官マカートニー。三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を求められるが、拒んだ(ジェームズ・ギルレイ、公益財団法人東洋文庫蔵)
    清の乾隆帝に謁見する英外交官マカートニー。三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を求められるが、拒んだ(ジェームズ・ギルレイ、公益財団法人東洋文庫蔵)

 73年5月に北京入りした副島一行は、同治帝との謁見にあたっては、清朝の慣習に従い、跪拝(きはい)の礼(ひざまずき身をかがめて拝礼すること)をとるよう求められました。

 副島は、国際慣例に反するとして拒絶し、立礼を主張します。総理衙門(そうりがもん)(清朝外務省)を訪ねた副島は、「人に五倫(ごりん)(人として守るべき五つの道)あり」と前置きして、皇帝と外国使節との謁見は「朋友(ほうゆう)の交わり」であって、跪拝(きはい)の礼を強制することは、孔子(こうし)を祖とする儒教の教えに反するなどと大弁舌をふるいました。

 さらに、特命全権大使である自分は、在清国外交団よりも高い立場にあるとして、同じく謁見を申し入れていたロシア、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ各国とは別扱いを求めました。

 清朝側と何度も折衝が重ねられた末、6月29日、副島は、同治帝と「単独」で会見します。跪拝はせずに、3回立ち止まって敬礼(おじぎ)をして中央に進み、台上に国書を提出。一礼してお祝いを述べ、同治帝の言葉を聞いてから退出する際も、3回敬礼をしました。

 これは中国では、まったく新しい謁見の方式でした。5か国の公使は、このあと同様に謁見します。跪拝の礼は受け入れられないとして謁見を先延ばししてきた各国とも、“副島方式”を歓迎し、公使らは副島を称賛しました。

琉球漂流民殺害事件―台湾出兵論

 副島の清国訪問の真の目的は、台湾で発生した琉球漂流民殺害事件について、清朝の加害責任を追及し、犯人の処罰や補償金などを要求することでした。さらに、日本との国交正常化を拒み続けている朝鮮をめぐり、清朝の意図を確かめることも求められていました。

 琉球漂流民殺害事件とは、71年11月末、琉球(沖縄)の那覇(なは)を出帆した宮古(みやこ)島の船が台風に()い、12月17日、台湾南端に漂着。上陸した66人のうち54人が、台湾の先住部族(生蕃人(せいばんじん))によって殺された事件です。

 辛うじて逃れた12人は、清国に保護され、翌72年7月に那覇に帰還しました。

 この事件が、日本外務省に報告されたのは、同年5月末~6月初めの頃。9月、鹿児島県参事・大山綱良(つなよし)(薩摩出身)は、琉球は昔から日本に服属している以上、この「残虐の罪」を容認するわけにはいかない。台湾に「問罪」(罪を問いただす)の軍隊を派遣したいので政府の軍艦を借用したい、と副島に申し入れます。

 これが「台湾出兵論」の初発です。

 鹿児島の鎮西(ちんぜい)鎮題(ちんだい)に赴任していた陸軍少佐・樺山(かばやま)資紀(すけのり)(薩摩出身、初代台湾総督)も上京し、西郷隆盛・従道らに事件を報告、出兵に向けての動きが強まります。

 その頃の台湾は、清朝の統治下にありました。

 日本人女性を母に持つ鄭成功(ていせいこう)が1662年、オランダから台湾の地を奪ったのち、1683年、清の康煕帝(こうきてい)が鄭氏政権を打倒。翌年、福建省台湾府を設置して以来、台湾を支配下に置いてきたのです。

 その間、台湾への漢人移民の増加により、先住民は未開地に追いやられ、治安も乱れるようになりました。清朝は19世紀半ば、アメリカ、イギリス、フランスなど欧米列強の圧力を受けて、台湾の四つの港を開港しました。

 副島外務卿は、アメリカ公使・デロングや厦門(アモイ)駐在アメリカ領事・リジェンドルらの助言を得て、台湾問題について対応策を練りました。

 72年11月に作成された外務省案は、「問罪」出兵にとどまらず、台湾南東部(先住民地域)の領有を清朝に要求し、これが拒否された時は、清国南岸と台湾近海に軍艦を派遣して台湾を占領するというところまでエスカレートします(勝田政治『明治国家と万国対峙』)。

 しかし、こうした出兵論に対しては、大蔵大輔(たいふ)・井上馨が「国威を(あげ)んとせば、まず、内務(内政)を調(ととの)えよ」などとして強く反対したことから、事実上撤回され、清との外交交渉が優先されることになります。

日清両属の琉球―日本帰属化

  • 尚泰(国立国会図書館ウェブサイトから)
    尚泰(国立国会図書館ウェブサイトから)

 明治天皇は72年10月16日、琉球国王・尚泰(しょうたい)(1843~1901年)を「琉球藩王となし、叙して華族に列す」との詔書を出しました。

 副島外務卿が宮中でこれを読み上げ、尚泰の名代として参内した正使の伊江(いえ)王子に伝えました。

 尚泰は、66年には清朝の使節を迎えて冊封(さくほう)(中国の皇帝が朝貢国の君主に王号を授与し、宗主国と藩属国という君臣関係になること)の儀式を既に済ませていました。琉球王国は、中国の明・清と朝貢関係を長く続けてきたのです。

 その一方で、琉球は、江戸時代からずっと薩摩藩の統治下にありました。1609年、薩摩藩主の島津(しまづ)家久(いえひさ)が、徳川家康に漂流船援助の謝恩使を送らなかったことなど「琉球の無礼」を口実に、3000人余の軍勢を送って琉球を侵略して以来のことです。

 薩摩藩は琉球を独立王国のまま存置し、中国との貿易を継続させます。薩摩藩が侵攻した主たる狙いは、朝貢貿易の利益を奪うことにありました。同藩は那覇に在番(ざいばん)奉行を置いて貿易を徹底的に管理し、日本産品を琉球経由で清に売り、清からは中国や西洋の品々を、琉球を介して日本に持ち込み、多大な利益を上げます。

 また、奄美大島をはじめ喜界(きかい)島、徳之島、沖永良部(おきのえらぶ)島、与論島を薩摩直轄としました。奄美諸島産の黒砂糖は、大坂市場などで転売され、薩摩藩の大きな財源となります。

  • 作家の大城立裕氏
    作家の大城立裕氏

 芥川賞作家の大城(おおしろ)立裕(たつひろ)氏(元沖縄県立博物館長)の著作に『小説 琉球処分』があります。その冒頭に置いた「物語の背景」説明の中で、大城氏は、「貿易益の横領をたくらんだ」島津氏は、「狡猾(こうかつ)な手段をもって琉球にたいし、鵜飼(うか)いの暴をつくした。……後年倒幕に貢献した薩摩の財力は、琉球からの搾取(さくしゅ)によって蓄えられたものとされているが、琉球は二世紀半ものあいだ、その圧制に苦しまなければならなかった」と書いています。

 幕藩体制が崩壊した結果、新政府は、こうした日本―琉球―清朝の関係見直しを迫られました。廃藩置県翌年の「琉球藩」の設置は、まずは鹿児島県と切り離して日本への属国化を明確にしようとしたのです。これが「琉球処分」の第1段階になりました。

 日本政府は、琉球王国が幕末にアメリカ、フランス、オランダと結んだ条約の正文を出すよう琉球藩に命じ、外交権も掌握しました。ただし、これらによって日清両属の状態が解消されたわけではありませんでした。

清朝「台湾は『化外』」

 副島は清国訪問に出発する前、同郷の参議・大隈重信にあてた手紙で、こんな趣旨のことを書いていました。

 <台湾全島の半分だけなら「舌上(外交交渉)」で獲得でき、半分を得れば、「四、五年で全島も舌上で手に入れ得るので、「このたびの機会失うべからず」>

 副島の胸の内には、台湾領有論が膨らんでいました。政府内には積極派の副島の派遣を危ぶむ声も出ていました。

 副島は北京滞在中の73年6月下旬、外務大丞(だいじょう)(大輔、少輔の下のクラス)の柳原(やなぎはら)前光(さきみつ)らを総理衙門(清朝外務省)に(つか)わしました。

 柳原が朝鮮と清朝の関係について質問すると、清朝側は、「朝鮮は属国だけれども、その内政・外交問題については関与しない」と回答しました。これによって副島は、仮に日本が朝鮮を攻撃しても、中国は介入しないだろうとの感触を得たようです。

 琉球漂流民殺害事件の責任追及はどうなったのでしょうか。

 清朝側は、「殺されたのは琉球人であって日本人ではない。琉球は我が藩属だ」と突っぱねました。これに対して柳原は、「琉球は薩摩の属国だった。日本臣民たる琉球人は日本政府の保護下にある」と反論しました。

 さらに柳原は台湾の「生蕃(先住民)」を処罰したのかと(ただ)しました。清朝側は、「『生蕃』は王化(おうか)(君主の徳に民が従い、世の中がよくなること)に服さない化外(けがい)なので、統治の対象とはしていない」と、清朝の支配は、台湾全土に及んでいないと明言しました。日本側は、これで『生蕃』討伐軍の派遣が正当化できると踏んだようです。

 しかし、これらは、すべて口頭のやりとりにとどまり、確認文書もありませんでした。

 これには「疎漏(そろう)(大ざっぱで手ぬかりがあること)至極(しごく)」との批判が出ましたが、副島は後年、「口頭だけで足りる。台湾を討ちさえすればよろしい」と語ったとされます。このあやふやな”言質(げんち)外交”が、74年の台湾出兵を後押しするかたちになります。

 7月27日、副島は帰国しました。すでに西郷隆盛が台湾出兵に言及するなど、出兵への気運が高まっていました。副島は8月7日、イギリス公使のパークスに、「1か月後、台湾南端に1隻ないし数隻の軍艦を派遣する予定である」と説明します。

 ところが、その直後、朝鮮をめぐる「征韓論争」が政府内で噴きあげたことから、台湾出兵は、いったん棚上げされます。

琉球はどうなるのか

 柳原外務大丞と清国外務省のやりとりでも、琉球の地位については、まったく意見が一致しませんでした。8月11日、琉球藩の与那原(よなばる)親方(うえーかた)らが副島の私邸を訪問しました。

 与那原は、日清両属の「やむなき由来」を説明したうえで、琉球は小国であり、制度の変革は民心を動揺させるので、「従来の情態を維持したい」と述べました。これに対して、副島は「外国との和約・交戦等のほか、国内の政治はすべて藩王に一任し、国体制度等は従来の通りたるべき事」と語りました(『尚泰侯実録』)。

 琉球側の求めに応じて、副島は覚書を交付しました。そこには、朝廷への「抗衡(こうこう)(抵抗して譲らないこと)」などによって庶民離散等がなければ、「廃藩の御処置はもとよりこれ有るまじく候」と書かれていました。

 これを琉球側が藩の安泰を「保証」するものと受け止めたとしても無理はありません。しかし、副島は間もなく「征韓論政変」で外務卿を辞任し、この「保証」も日本政府によって覆されることになります。


【主な参考・引用文献】

▽森田朋子・齋藤洋子『佐賀偉人伝12 副島種臣』(佐賀県立佐賀城本丸歴史館)▽安岡昭男『副島種臣』(吉川弘文館)▽杉谷昭『鍋島閑叟―蘭癖・佐賀藩主の幕末』(中公新書)▽勝田政治『明治国家と万国対峙―近代日本の形成』(角川選書)▽大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館)▽毛利敏彦『幕末維新と佐賀藩―日本西洋化の原点』(中公新書)▽同『明治六年政変』(中公新書)▽同『台湾出兵―大日本帝国の開幕劇』(中公新書)▽萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄10 大分裂』(朝日文庫)▽戴國●(「火へん」に「軍」)『台湾―人間・歴史・心性』(岩波新書)▽ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(新潮文庫)▽大城立裕『小説 琉球処分(上)(下)』(講談社文庫)▽高良倉吉『琉球王国』(岩波新書)▽宮城栄昌『沖縄の歴史』(琉球新報社)▽児玉幸多・北島正元編『第二期 物語藩史 第七巻』(人物往来社)▽吉澤誠一郎『清朝と近代世界 19世紀』(岩波新書)▽加藤徹『西太后』(中公新書)▽東恩納寛惇『尚泰侯実録』(国会図書館デジタルコレクション)▽坂本多加雄『日本の近代2 明治国家の建設』(中公文庫)▽波多野善大編『中国文明の歴史10 東アジアの開国』(同)

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2017年12月13日05:20 Copyright © The Yomiuri Shimbun
プロフィル
浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。