<米欧回覧と文明開化>第9回~高まる征韓論、波乱の政局

混迷する留守政府

 1873(明治6)年の初頭、留守政府トップの太政大臣(だじょうだいじん)・三条実美(さねとみ)は、懸案を四つ挙げて外遊中の右大臣・岩倉具視(ともみ)に報告しています。

  • 西郷隆盛(国立国会図書館ウェブサイトから)
    西郷隆盛(国立国会図書館ウェブサイトから)

 第1は、留守政府の最高実力者で筆頭参議の西郷隆盛と、旧薩摩藩主の父・島津久光との険悪な関係です。第2は73年度政府予算編成をめぐる大蔵省と各省との対立、第3は台湾問題、第4は朝鮮問題でした。

 廃藩置県以来、島津久光は、西郷を目の敵にして非難し、新政府の開化政策に執拗(しつよう)な抵抗を続けていました。西郷はこれに手を焼き、ストレスに苦しみます。

 西郷は72年の暮れ、久光をなだめるため、鹿児島に帰県して謝罪しますが、怒りは解けず、当地に(とど)まることになります。政府は、勝海舟を勅使として鹿児島に派遣して隆盛と久光の上京を促し、西郷は73年4月、東京に戻りました。政府は、新政に不満を抱く士族らと久光が連携することを警戒していました。

 第2の予算編成をめぐる衝突は、72年半ば、大蔵大輔(たいふ)の井上(かおる)と三等出仕(少輔(しょうゆう)相当)の渋沢栄一が、財政健全化のため、各省の予算に大ナタをふるったことに始まります。

 学制改革をはかる文部省や、司法改革を進める司法省の予算は半分に削られました。ところが、徴兵制導入にあたる陸軍省の予算要求はほぼ全額認められました。同省は陸軍大輔・山県有朋ら長州閥が幅をきかせていました。

 これでは文部(きょう)・大木喬任(たかとう)や司法卿・江藤新平らはおさまりません。「不公平」だと猛烈に抗議し、井上は職務放棄して登庁を拒み、政府内は大混乱に陥ります。

 あわてた三条は73年1月、岩倉使節団の大久保と木戸に即刻帰国するよう求めました。これは、太政大臣の三条と参議の西郷、板垣退助、大隈重信からなる正院(せいいん)(政府の最高機関)が、もはや各省を束ねられなくなったことを示していました。

ラジカルな司法卿

 司法卿の江藤新平(1834~74年)は、73年1月24日、予算削減に抗議して辞表を提出しました。

  • 江藤新平(国立国会図書館ウェブサイトから)
    江藤新平(国立国会図書館ウェブサイトから)

 佐賀肥前藩の江藤は、制度局取調掛として、文部大輔に転じるまで多くの官制改革案を作成する一方、司法卿就任前から、民法・国法会議の開催を提案し、民法典の編纂(へんさん)作業にもかかわっていました。

 72年5月末、司法卿になると、人身売買や私的復讐(ふくしゅう)敵討(かたきう)ち)を禁止するとともに、司法権独立のため、大蔵省から裁判権を分離し、司法省統括の府県裁判所を設置します。

 就任1か月後、江藤は<司法省誓約>を示して、「民の司直(しちょく)たるべき事」、「人民の権利を保護すべき事」など、同省のあるべき姿を明らかにし、続く<司法省の方針を示すの書>でも、公正・迅速な裁判と、冤罪(えんざい)を出さないことを改めて強調しました。

 江藤は、長文にわたる抗議の辞表の中で、法治主義の理念をこう説いています。

 「国の富強の元は、国民の安堵(あんど)にあり。安堵の元は、国民の位置を正すにあり」

 その意味するところは、国民の権利義務を法的に確定する(位置を正す)ことによって、初めて国民は安心(安堵)して政府を信頼し、実業に励むので、結果として税収は増え、国の富強につながるというわけです。(毛利敏彦『江藤新平』)

 結局、正院は2月、江藤の辞表を却下し、予算を見直しました。

 著作家の徳富蘇峰(とくとみそほう)は、江藤は「本来のラジカルである」としたうえで、その「論理的頭脳」と「峻烈(しゅんれつ)なる気象」と「鋭利なる手腕」を高く評価しています。

政治スキャンダル

 弱体化した正院の立て直しを図るため、留守政府は4月、参議の増員に踏み切り、司法卿・江藤、文部卿・大木、左院議長・後藤象二郎の3人を新たに任命しました。

 それだけでなく、5月には、正院を拡充強化する太政官制「潤飾(じゅんしょく)(改定)」を実施します。左院(立法諮問機関)を棚上げし、右院(各省の卿・輔で構成)も常設の機関から外して、正院に太政官の権限を集中させました。

 「内閣」が設置され、参議たちが内閣議官となり、各省への命令権を与えられて、国家統治の実権を掌握しました。これは、新規改革は凍結するとした、使節団と留守政府との「約定(やくじょう)」に違反していました。

  • 大蔵省勤務時代の井上馨(明治4年頃撮影、国立国会図書館ウェブサイトから)
    大蔵省勤務時代の井上馨(明治4年頃撮影、国立国会図書館ウェブサイトから)

 大蔵省の予算編成権も正院に引き上げられたため、井上大蔵大輔は5月3日、辞表を提出します。こうして長州閥の井上が辞職し、土佐の後藤、肥前の江藤・大木が新参議として登場したことは、土肥派の台頭を印象づけ、太政官制潤飾と同様、政局の波乱要因になります。

 井上(いのうえ)(かおる)(1835~1915年)は、倒幕運動を経て新政府に参画、大蔵省で役職を重ね、廃藩置県後は、巨大官庁化した同省の大蔵大輔として権勢をふるいました。

 西郷から「三井の番頭さん」と揶揄(やゆ)されるほど、政商三井組と近かった井上は、大蔵大輔辞任後、尾去沢(おさりざわ)銅山(鉱山)事件の直撃を受けます。政府が盛岡の豪商から接収した「尾去沢銅山」(秋田県北東部)を同郷の商人に破格の安値で払い下げ、銅山の共同経営者に収まろうとした疑惑でした。

 これと前後して、政府内では、長州藩出身の陸軍卿・山県有朋絡みの山城(やましろ)屋和助(やわすけ)事件や、豪商・三谷(みたに)三九郎(さんくろう)の倒産事件など、陸軍省官金の流用スキャンダルが相次ぎます。豪商・小野組が京都から東京へ戸籍を移すにあたって、長州閥の京都府参事らが職権を乱用して、同組の東京進出を妨害する事件も起きました。

  • 尾去沢鉱山(明治20年頃、史跡尾去沢鉱山提供)
    尾去沢鉱山(明治20年頃、史跡尾去沢鉱山提供)

 司法卿の江藤が、これらの不正摘発に動いたのは、職務上、当然のことでした。もっとも、江藤には、悪事をあばくことによって長州閥の権力を弱める政治的な思惑があったようです。

 しかし、江藤が標的とした井上は、大蔵卿(大臣)の大久保が、岩倉使節団で外遊中の留守を任せた大蔵大輔(次官)でした。また、使節団副使の伊藤博文とは同じ長州閥で、幕末にはともにヨーロッパに密航した、親しい仲間でした。さらに長州閥の領袖・木戸孝允にとって、井上は大事な子分であり、木戸は米欧訪問から帰国早々、尾去沢銅山事件の鎮静化のために奔走しています。

 司法卿・江藤の驀進(ばくしん)は、薩長閥との全面対決の危うさをはらんでいました。

朝鮮との国交断絶

 第3の台湾問題は、前回の『副島種臣の国権外交』の中で述べたとおりですが、台湾問題をいったん脇に置く形で、一気に浮上したのが、第4の朝鮮問題でした。

 江戸時代の日朝両国は、朝鮮通信使に象徴されるように、比較的、安定した関係を維持してきました。明治政府は1869年1月、対馬藩主を通じて朝鮮政府に対し、明治維新で王政復古した旨を知らせる国書を送ります。

  • 大院君(国立国会図書館ウェブサイトから)
    大院君(国立国会図書館ウェブサイトから)

 ところが、朝鮮側は、その外交文書の中に、先例に反して「皇」や「勅」などの文字があり、非礼だとして国書を受け取りませんでした。朝鮮にとって「皇」は、清の皇帝だけであり、朝鮮は王を名乗っていました。日本側が皇という呼称を使ったのは、明治天皇を朝鮮国王の上に位置づけるもの、というのが、その理由でした。ここに国交が事実上、断絶してしまいます。

 当時、朝鮮は、「攘夷」を唱え続けてきた大院君(たいいんくん)(国王・高宗(こうそう)の実父)が摂政をしており、開国に転換して欧化政策をとった日本に不信と警戒感を抱いていたようです。

 日本政府は71年に日清修好条規に調印しましたが、これは朝鮮が朝貢し、その「上位」にあたる清との間で対等条約を締結することで、日朝交渉を打開する狙いがありました。しかし、朝鮮側は一向に態度を変えませんでした。

「征韓論」が浮上

  • 釜山の草梁倭館(18世紀)
    釜山の草梁倭館(18世紀)

 政府は72年9月20日、外務大丞(だいじょう)花房(はなぶさ)義質(よしもと)を朝鮮に派遣しました。花房は10月18日、釜山(プサン)の広大な敷地に建てられた「草梁(そうりょう)倭館(わかん)」を接収し、外務省の管轄下に置きました。

 同館は、朝鮮外交を担った対馬藩の役人や商人らが滞在してきた、長崎の出島にあたる場所です。接収は、廃藩置県で対馬藩がなくなったのに伴い、新政府に対朝鮮外交を一元化させる措置でした。

 しかし、朝鮮当局はこれに強く反発し、大日本公館(旧倭館)への生活物資の供給を止めるとともに、公館前に「日本は無法の国」と非難する掲示を出しました。公館の日本係官が、この状況を報告書(73年5月31日付)にして外務省に提出したことから日本国内の「征韓論」に火がつきます。

 しかし、征韓論自体、これが初めてではありませんでした。

 例えば、幕末の志士で教育者の吉田松陰(しょういん)は、「取り易き朝鮮・満州・支那を切り(したが)え、交易にて魯国(ロシア)に失う所は、また土地にて鮮満にて償うべし」と書いていました。朝鮮などは武力でもって服従させ、ロシアとの交易で失う富は、朝鮮、満州を取って補填(ほてん)すべしという意味です。

 さらに朝鮮との窓口だった対馬藩からも、貿易拡大などを目的に、武力行使を伴う征韓論が出されていました。また、木戸孝允は戊辰戦争さなかの69年1月、「使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼もし服せざる時は罪をならして攻撃、大いに神州の威を伸長せんことを願う」と岩倉に説いていました。

朝鮮使節に西郷内定

 さて、73年6月、釜山の公館から報告を受けた外務省は対応を協議します。

 この結果、現地の日本人が「凌虐(りょうぎゃく)」(はずかしめ、いじめること)を受けかねない事態なので、まずは居留民保護のため、「陸軍若干、軍艦幾隻」を派遣し、「公理公道をもって談判」する方針を固めます。

 外務省の要請で開かれた閣議では、板垣が外務省の方針に賛成し、「兵士一大隊を急派せよ」と主張します。これに対して、西郷が反論し、まず「全権を委ねられた大官を派遣」するよう求め、自ら使節の任にあたりたいと述べました。(毛利敏彦『明治六年政変』)

 西郷は8月13日の閣議で、訪朝の意向を正式に表明。16日には三条を訪ね、「朝鮮は必ず使節を殺害するので、その節は、天下の人、皆あげて討つべき罪を知る」として派遣決行を迫りました。

 政府は17日の閣議で、西郷を朝鮮使節として派遣することを内定します。

岩倉使節団帰国

  • 船が行き交うスエズ運河の地中海側入り口ポートサイド(1890年撮影、米国議会図書館蔵)
    船が行き交うスエズ運河の地中海側入り口ポートサイド(1890年撮影、米国議会図書館蔵)

 特命全権大使・岩倉以下の使節団一行は、4月から7月にかけてデンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスの各国を歴訪し、同月20日、フランスのマルセイユから帰国の途に就きます。地中海からスエズ運河を通って、アラビア海、セイロン島、ベンガル湾、マラッカ海峡、シンガポール、サイゴン、香港、上海を経由して9月13日、横浜に着きました。

 使節団副使の大久保は73年5月26日、同じく副使の木戸は同7月23日、それぞれ個別に帰国していました。肥前・土佐派が目立つ政府の布陣を前に、すぐに動こうとしなかった2人は、岩倉が帰国すると、「西郷使節」に反対して巻き返しに転じます。

 ここから、岩倉使節団の外遊組と、西郷隆盛ら留守政府の面々が、征韓論を直接のきっかけに正面から激突する<明治六年政変>が幕を開けます。

【主な参考・引用文献】

 ▽萩原延壽『大分裂 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄10』(朝日文庫)▽姜範錫『征韓論政変―明治六年の権力闘争』(サイマル出版会)▽毛利敏彦『江藤新平―急進的改革者の悲劇』(中公新書)▽同『明治六年政変』(同)▽大日方純夫『「主権国家」成立の内と外』(吉川弘文館)▽勝田政治『明治国家と万国対峙―近代日本の形成』(角川選書)▽宮内庁『明治天皇紀 第三』(吉川弘文館)▽家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)▽ドナルド・キーン『明治天皇(二)』(新潮文庫)▽趙景達『近代朝鮮と日本』(岩波新書)▽岡百合子『中・高校生のための 朝鮮・韓国の歴史』(平凡社ライブラリー)▽金重明『物語 朝鮮王朝の滅亡』(岩波新書)▽田中彰『岩倉使節団「米欧回覧実記」』(岩波現代文庫)▽坂本多加雄『明治国家の建設』(中公文庫)▽司馬遼太郎『歳月(上)(下)』(講談社文庫)

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2018年1月17日05:20 Copyright © The Yomiuri Shimbun
プロフィル
浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。