<西郷隆盛と大久保利通>第1回~明治維新、二人の役割

鹿児島城下の生まれ

  • 明治時代の鹿児島城(国立国会図書館ウェブサイトから)
    明治時代の鹿児島城(国立国会図書館ウェブサイトから)

 明治維新の主役である西郷隆盛(さいごうたかもり)(1827~77年)と大久保(おおくぼ)利通(としみち)(1830~78年)の政治活動をたどると、「維新史」の輪郭が浮かび上がります。ここで二人を軸にいま一度、幕末~明治初期の動きを振り返ってみましょう。

 二人は、ともに鹿児島城下の下加治屋町で生まれました。西郷が生まれて10年後、大塩平八郎(大阪町奉行所の与力で陽明学者)が貧民救済のために武装蜂起しています。また、大久保の誕生から10年後には、イギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発しました。

 西郷の方が大久保より三つ年上で、二人は親しい仲間でした。ともに家柄は、城下に住む武士の中でも下層の御小姓与(おこしょうぐみ)で、生活は楽ではなかったようです。

西郷は斉彬の庭方役

  • 島津斉彬(国立国会図書館ウェブサイトから)
    島津斉彬(国立国会図書館ウェブサイトから)
  • 月照(国立国会図書館ウェブサイトから)
    月照(国立国会図書館ウェブサイトから)

 アメリカのペリー提督が再来航した1854年、西郷は、薩摩藩主・島津(しまづ)斉彬(なりあきら)の参勤交代に従って江戸に向かいます。

 斉彬は、西洋文明を受け入れることにより、経済・軍事の近代化を図るべきだとする積極的開国論者であり、西郷が師父と仰ぐ人物でした。

 西郷は庭方役(にわかたやく)を拝命します。庭方役は、幕府の御庭番(おにわばん)にならったもので、藩主専属で機密事項を扱うポストです。ここで西郷は、斉彬の意を体し、政界の裏工作などにあたります。

 この仕事を通じ、西郷は、水戸藩主・徳川(とくがわ)斉昭(なりあき)の腹心である藤田(ふじた)東湖(とうこ)と出会い、この尊王論を鼓吹(こすい)する著名な学者に心酔します。

 また、越前藩主・松平慶永(よしなが)の懐刀だった橋本左内とも知り合い、徳川家定の将軍継嗣問題では、ともに一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)(斉昭の子)擁立のために奔走。斉彬の養女で将軍家定の正室となった篤姫(あつひめ)(のちの天璋院(てんしょういん))らを通じて大奥工作も展開しました。

 しかし、大老に就いた井伊(いい)直弼(なおすけ)は、日米修好通商条約の調印を強行、新将軍は家茂(いえもち)と決まり、斉彬ら一橋派の敗北に終わります。

 これを受け、井伊は反対派の大弾圧に打って出ます。この「安政の大獄」(58年10月)は、そもそも、条約の無断調印(同年7月)に怒った孝明(こうめい)天皇が水戸藩に発した勅書(戊午(ぼご)密勅(みっちょく))が導火線になっています。西郷はその密勅の運び役を仰せつかっています。

 井伊は、一橋派を厳しく罰し、左内も斬罪(ざんざい)に処せられ、西郷の同志だった僧月照(げっしょう)も幕吏に追われます。西郷は、月照を保護しようと帰藩しますが、西郷への風当たりは強く、二人は鹿児島・錦江湾(きんこうわん)に入水し、西郷だけが蘇生(そせい)します。西郷は、その「恥」をしのびつつ、奄美大島で3年間、幽閉生活を送ることになります。

大久保、藩の中枢へ

  • 鹿児島市にある大久保利通像
    鹿児島市にある大久保利通像

 他方、藩の記録所書役(かきやく)助に就職した大久保は、「お由羅(ゆら)騒動」(1849年、藩主斉興(なりおき)嫡子(ちゃくし)・斉彬と、側室お由羅の子・久光(ひさみつ)との間で起きた家督争い)に巻き込まれ、父親は喜界(きかい)島に島流し、自分も免職となり、「謹慎」生活を強いられました。

 大久保は3年後に復職し、57年には西郷とともに徒目付(かちめつけ)に就きます。しかし、安政の大獄直前に斉彬が死去すると藩政は一変し、新しい藩主の父親である久光(斉彬の異母弟)が実権を握ります。

 大久保は藩内の有志らと尊皇攘夷派の「誠忠(せいちゅう)組」を結成します。彼らは一斉に脱藩して、井伊ら幕府首脳を襲撃しようと計画します。大久保は、「突出」行動を抑えて巧みに久光に接近し、61年には、藩主側近の小納戸役(こなんどやく)に昇進し、藩の権力中枢に食い込みます。

 以後、久光と大久保は、斉彬が(のこ)していった公武合体構想の実現をめざして、藩兵を率いての京都・江戸遠征を計画します。

 62年、奄美に流されていた西郷が赦免されて復帰しました。ところが、西郷は中央政局に乗り出す久光を「ジゴロ(薩摩言葉で田舎者)」と批判、さらに尊攘派の扇動者とみられたことで久光の怒りを買い、今度は徳之島~沖永良部(おきのえらぶ)島へ流罪(るざい)となります。

  • 西郷隆盛が入れられた牢屋(再現、沖永良部島)=鹿児島県和泊町教育委員会提供
    西郷隆盛が入れられた牢屋(再現、沖永良部島)=鹿児島県和泊町教育委員会提供

 この2度目の島流しで、西郷は座敷牢(ざしきろう)に入れられるなど、過酷かつ孤独な生活を余儀なくされました。

公武合体運動を推進

  • 島津久光(国立国会図書館ウェブサイトから)
    島津久光(国立国会図書館ウェブサイトから)

 大久保は62年5月、藩兵1000人余を率いて京都入りした島津久光に同行します。

 久光は「公武合体」のための幕政改革を朝廷に上申する一方、「浪士鎮撫(ちんぶ)」の勅命を受けて、伏見の寺田屋に集合していた急進派の薩摩藩士らを殺害します。

 大久保は、一橋慶喜を将軍後見職に任ずる勅命を得るため、朝廷の実力者・岩倉(いわくら)具視(ともみ)を訪ねます。のちに明治国家の中枢をなす岩倉―大久保ラインは、この時の初対面に始まります。久光は、勅使とともに江戸入りし、この幕府の新人事を実現させました。

 ところが、その帰路、行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する生麦事件(62年9月)が起き、これが薩英戦争(63年8月)の原因になります。

 大久保は、イギリスから要求された賠償金問題の解決にあたります。彼は、幕府老中の屋敷に薩摩藩士を差し向け、「貸してもらえぬならイギリス公使を斬り、自分たちも切腹する」と言わせて老中を脅し、7万両を工面したといわれます。

 大久保は63年3月、家老に次ぐポストの側役(そばやく)小納戸(こなんど)頭取兼任に異例の昇格をします。

 久光が去った京都では、「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」の長州藩が朝廷を動かして将軍家茂を上洛させ、孝明天皇は、幕府に攘夷決行を命じました。これに対して、63年9月、公武合体派の会津藩と薩摩藩がクーデターを起こし、尊皇攘夷派の公卿と長州藩を京都から追放しました。

 このあと、64年2月、久光の公武合体論にもとづく「参預会議」(会津・越前・土佐・宇和島の各藩主と一橋慶喜、島津久光で構成)が設置されます。しかし、久光主導を警戒した慶喜によって会議は、2か月で解体されてしまいます。

 とはいえ、大久保が側近として同行した久光の京都・江戸入りは、外様雄藩が、幕府改革に強い発言力を示し、朝廷の会議にも参加する道を切り開いた点で画期的といわれます。

 このころ、流罪で辛酸をなめた西郷が召還されます。

 都合5年近くにわたる島流しに耐え、人間的に深みが加わった西郷は、同年4月に上洛し、久光と会見して、関係は一応修復されます。その後、西郷も、小納戸頭取に昇格するなど出世を重ね、京都で薩摩藩を代表して対外折衝にあたるようになります。

 西郷と大久保の時代の到来です。

「討幕」で二人三脚

  • 東京・上野の西郷隆盛像
    東京・上野の西郷隆盛像

 64年7月、新選組が尊攘派の志士たちを殺害した「池田屋事件」が発生しました。

 これをきっかけに長州藩兵が京都に乗り込み、8月、御所に進撃して発砲します。いわゆる「禁門(きんもん)の変」(または「蛤御門(はまぐりごもん)の変」)です。

 西郷は、この戦闘で部下を率いて長州軍と戦います。この時、流れ弾が足にあたり落馬して負傷しますが、この戦功で、西郷は重職の側役に就任します。

 朝敵となった長州征討に、西郷は軍の参謀役として出向きます。しかし、長州藩を徹底的に追い詰めることはせず、3家老の切腹によって戦闘を回避しました。

 その際、長州藩が、奇兵隊の創設者である高杉晋作の切腹や斬首も検討したことを示す文書が、最近、山口県岩国市で見つかりました。刑死を免れた晋作は、このあと下関で挙兵し、藩政府を打倒します。(読売新聞朝刊2018年1月21日)

 幕府は1865年5月、長州の再征討へと動きます。会津藩が強く主張し、一橋慶喜と桑名藩が同調しますが、西郷や大久保は、大義名分が立たない再征に猛反発します。

 再征を阻止するため、大久保は朝彦(あさひこ)親王に対して、「非義の勅命は勅命にあらず」と言い放ち、二条関白には、これが撤回されなければ、朝廷を見限ると宣言します。

 しかし、幕府は勅許を手に入れ、翌66年7月、長州再征の戦争が開始されます。

 その約1年前の65年8月、西郷は坂本龍馬と京都で会い、長州藩に武器を融通することに同意していました。66年3月には、龍馬の呼びかけで、薩摩藩の西郷と大久保、小松帯刀(こまつたてわき)が、宿敵だった長州藩の木戸孝允と京都で会合し、一橋・会津・桑名の「一会桑」打倒に向けて「薩長同盟」(薩長盟約)を締結します。

 67年7月には、西郷、大久保、小松の3人は、土佐藩の後藤象二郎らとの間で、「薩土盟約」を結びました。王政復古によって徳川氏を一藩主に戻し、公卿・諸藩会議を設けること(公議政体)で合意したのです。

徳川慶喜を「排除」

 しかし土佐藩は、これを実現するため、軍事力を行使することに否定的でした。このため、薩摩藩は盟約を破棄したうえで、大久保が10月、長州を訪問し、木戸らとの間で挙兵のための出兵協定を結びます。大久保はその際、長州藩の首脳陣に軍事クーデター計画を説明しています。(勝田政治『<政事家>大久保利通』)

 だが、西郷・大久保の足元の薩摩藩内では、出兵反対論が巻き起こり、厳しい状況に追い込まれた西郷は、「討幕の密勅」によって事態打開を企てます。

 67年11月8日、公家の岩倉が「賊臣・慶喜を殺せ」との趣旨の密勅を大久保らに手交します。

 ところが、この日、徳川慶喜は、土佐藩の建白を受け入れる形で大政奉還を決断し、在京の諸藩士に大政奉還の意向を表明しました。

 この慶喜の決断は、西郷、大久保にとって思いもよらぬものでした。それでも西郷、大久保は、王政復古のクーデターをあきらめず、計画を練り直します。

 二人は、慶喜に対して強い不信感を抱いていました。同時に、朝廷を支配してきた摂関家(せっかんけ)の問題処理能力の欠如も痛感していました。

 このため、西郷と大久保は、慶喜の政権返上に反発する会津、桑名両藩を打倒するとともに、新政権で主導権をとるため、慶喜の「排除」を決意します。(家近良樹『西郷隆盛』)

  • 新政府を樹立する王政復古の大号令(国立国会図書館ウェブサイトから)
    新政府を樹立する王政復古の大号令(国立国会図書館ウェブサイトから)

 68年1月3日(慶応4年12月9日)、遂にクーデターが断行されます。西郷が薩摩、土佐など5藩兵を指揮して宮門を封鎖しました。その光景を大久保は、日記に「未曽有の壮観」と記しています。王政復古の大号令が宣言され、新政府が樹立されます。これによって700年にわたる武家政治が幕を閉じることになったのです。

 大久保は、宮中での小御所会議で、公卿・大名の言動に目を光らせ、会議は慶喜の「辞官(じかん)納地(のうち)」(内大臣辞退と領地返上)で決着しました。

 ところが、間もなく、新政府内から慶喜の処分を見直す動きが浮上し、西郷・大久保は批判の矢面に立たされます。

 この二人の窮地を救ったのが、庄内藩兵による江戸薩摩藩邸焼き打ちでした。この事件が鳥羽・伏見の戦いに火をつけたのです。西郷は、薩摩側が放った「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりもうれしい」と、大喜びしたと伝えられます。

 68年2月、天皇親征の(みことのり)が発布されると、西郷は東征大総督府下参謀に任命され、5万の大軍を率いて京都を出発しました。

 慶喜征討に熱意を燃やし、江戸総攻撃を4月7日(旧暦3月15日)と定めます。しかし、西郷は、最終局面で幕府陸軍総裁・勝海舟と会談、総攻撃中止と江戸無血開城を実現させます。

「廃藩置県」を断行

 西郷は、新政府入りせず、68(明治1)年12月に鹿児島に帰ります。箱館戦争のため、翌年、北海道に出陣しましたが、到着した時は既に平定されていました。

 王政復古の第1の功臣として、西郷には賞典禄永世2000石が下賜される一方、(しょう)三位(さんみ)にも叙せられます(のちに辞退)。

 西郷は、藩参政として藩政改革にあたります。凱旋(がいせん)兵士らに優遇措置をとりますが、これが島津久光らの反発を招きます。さらに西郷は、「下血(げけつ)」など深刻な体調不良に悩まされるようになり、久光とその周辺との関係も、以前のように悪化します。

 間もなく西郷は、新政府批判を繰り広げるようになります。大臣以下が「驕奢(きょうしゃ)」(ぜいたく)に過ぎ、朝廷の役人は月給をむさぼるだけの「泥棒なり」などと言い出します。

 一方の大久保は、西郷が戊辰戦争で転戦している間、京都で天皇政府樹立への政略をめぐらせていました。とくに京都から大阪への遷都を提案し、それを機に「民の父母」たる新しい天皇像の創出を考えていました。目指すところは、天皇みずから万機(ばんき)親裁(しんさい)(裁決)する天皇親政の実現です。

 藩主が土地(版)と人民(籍)を天皇に返上する「版籍奉還」でも、大久保は、木戸らと話し合い、69年1月、長州・薩摩・肥前・土佐の4藩主の建白によって、奉還へのレールを敷きました。

 しかし、新政府は、首脳・幹部同士の対立や、農民反乱、凱旋兵士の反抗、貨幣贋造(がんぞう)などが相次ぎ、その基盤はいっこうに安定しませんでした。

 このため、西郷の中央政府入りを求める声が強まり、71年2月、岩倉勅使が大久保とともに鹿児島を訪ね、島津久光と西郷の上京を求めました。

 これに対して、西郷は、陸海軍の充実や親兵の献上、外交における信義・礼節の尊重、政府要人の贅沢(ぜいたく)禁止などを要求します。岩倉がこれを了承し、西郷は政府入りを決めます。大久保らとともに鹿児島を出発したあと、山口、高知を訪ねて薩長土3藩の協力体制を再構築します。

 東京で西郷が中心になって3藩からなる約8000人の「親兵」が創設されます。71年8月、西郷は木戸と二人だけの参議に就任します。

 同月29日には廃藩置県の詔書が出されます。長州藩の山県有朋から事前に廃藩置県を打診された西郷は、「断然同意」を表明。大久保も「断然決行すべし」と、この知らせにうろたえてしまった岩倉を励ましています。

 日本近代化の礎となる廃藩置県は、「親兵」の武力を背景に、西郷が示した判断が、決定的な役割を果たしました。だが、その分、西郷は、藩体制の存続を願う久光をはじめ、職を失うことになる士族たちから恨まれます。

 それからわずか4か月後、岩倉をトップに木戸や大久保が参加する米欧回覧の政府使節団が旅立ちました。西郷は留守政府を預かる立場に置かれます。留守政府はその後、地租改正や学制公布、太陽暦の採用、徴兵制導入など数多くの改革を実施しました。

 岩倉使節団の一行は73年9月に帰国します。西郷は、これを待たずに、征韓論の立場から自ら朝鮮使節に手を挙げます。これが、大久保らと決定的な対立を招き、政府大分裂の引き金を引くことになるのです。

【主な参考・引用文献】

 ▽家近良樹『西郷隆盛―人を相手にせず、天を相手にせよ』(ミネルヴァ書房)▽勝田政治『<政事家>大久保利通』(講談社選書メチエ)▽井上清『西郷隆盛(上)(下)』(中公新書)▽毛利敏彦『大久保利通』(同)▽川道麟太郎『西郷隆盛―手紙で読むその実像』(ちくま新書)▽佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫)▽加来耕三『西郷隆盛100の言葉』(潮新書)

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2018年1月31日05:20 Copyright © The Yomiuri Shimbun
プロフィル
浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。