<西郷隆盛と大久保利通>第5回~台湾出兵と北京交渉

一転して外征へ

  • 大久保利通(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵)
    大久保利通(鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵)

 征韓論に端を発する大政変(1873年10月)の後、台湾問題が再び浮上します。

 1874(明治7)年1月、内務卿・大久保利通と大蔵卿・大隈重信は、台湾出兵の方針を固め、2月6日の閣議に「台湾蕃地(ばんち)(先住民が住む未開の地)処分要略」を提案しました。

 要略は、出兵について、71年に台湾に漂着した琉球人が原住民の「生蕃(せいばん)」に殺害されたことに報復するのは「政府の義務」であり、先に訪中した副島種臣(そえじまたねおみ)・外務卿に対して、清朝側が台湾蕃地を「化外(けがい)の地」としたことからも、ここは国際法上、「無主(むしゅ)の地」とみなすべきだ、としていました。

 日本政府は、これを理由とした台湾出兵により、日清両属だった琉球(沖縄)を日本の主権下に置くことをねらっていました。

 日本近代で初めての海外派兵は、こうして同日の閣議で正式決定されます。

 日本国内では、すでに述べたように、この直前の1月には、岩倉具視(ともみ)襲撃事件や、板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」の提出、2月に入ると江藤新平らの「佐賀の乱」の勃発(ぼっぱつ)など、反政府運動が活発化し、大久保政権を激しく揺さぶっていました。

 それにしても、征韓論に徹底的に反対した大久保が、一転して台湾出兵を推進したのは、なぜだったのでしょうか。

 一つには、各地の不平士族らの反政府的機運をこれ以上、放置できなかったことがあります。二つには、出兵に伴う清国や列強の軍事介入のリスクが、征韓に比べると小さいとみられたこと、などが指摘されています。

 大久保にしても、鹿児島士族をはじめとする外征論者らの圧力は如何(いかん)ともしがたく、士族階級の不平不満のはけ口を台湾出兵に求めたものとみられます。

英・米は「反対」

  • 西郷従道(国立国会図書館ウェブサイトから)
    西郷従道(国立国会図書館ウェブサイトから)

 1874年4月4日、陸軍大輔(たいふ)(次官)・西郷従道(さいごうつぐみち)(1843~1902年 隆盛の弟)が、陸軍中将に昇進し、台湾蕃地事務都督(ととく)(遠征軍総司令官)に任命されます。

 西郷が組織する征台軍は約3600人、その主力には鹿児島兵800人が含まれていました。また、台湾蕃地事務局長官には大隈が就任します。

 政府は4月2日、外務省顧問・リジェンドル(米国人)らの提言を受け、従来の問罪のための派兵から、台湾の植民地化まで図る新方針を閣議決定します。この西郷従道ら旧薩摩派が主導した拡大路線に、木戸孝允ら旧長州派が強く反発し、木戸は参議を辞任しました。

  • 木戸孝允(国立国会図書館ウェブサイトから)
    木戸孝允(国立国会図書館ウェブサイトから)

 当時、大久保は、「佐賀の乱」の鎮圧のため、現地にあって不在でした。木戸は、日本の国力、財力では戦争に耐えられないとみていました。征韓論にともに反対した大久保の「変身」も許せなかったものとみられます。

 台湾出兵に対しては、列強からも強いクレームが出されます。

 欧米諸国は、日清衝突の事態が、貿易・経済活動に多大な悪影響をもたらすことを懸念していました。

 イギリス公使のパークスは、日本の出兵を清朝側が自国領土への侵略行為と見なす場合は、英国人や英国船を従事させることはできないと日本側に警告しました。

 「台湾全土が清国領土」という立場のアメリカ公使・ビンガムは、日本の台湾遠征は清国への敵対行為だとして、日本が米国人・船を使うことを拒否しました。

「延期」のち「決行」

 英米の干渉を受けて、日本政府は4月19日、いったん台湾出兵の延期を決めます。

 しかし、西郷従道は、「姑息(こそく)の策は、かえって士気を鬱屈(うっくつ)させ、その(わざわい)は、佐賀の乱の比ではない」として、延期決定を拒否。4月27日と5月2日に計約1200人の先遣部隊を台湾に向けて出航させてしまいます。

 佐賀から帰京したばかりの大久保は、急ぎ長崎に入り、5月4日、大隈と西郷従道と協議します。結論は、出兵という「既成事実」を容認し、「出兵延期」を撤回します。

 大久保は、その際、リジェンドルの帰京とアメリカ人士官の解雇、対清交渉に向けての柳原前光(やなぎはらさきみつ)公使の清朝派遣などを指示しました。

 西郷従道は17日、約1800人の本隊を率いて高砂丸で長崎を出港します。日本政府は19日になってようやく、正式に「台湾蕃地処分の布告」を出しました。

 西郷は5月22日に台湾南部に上陸。6月1日から5日にかけて総攻撃をかけ、琉球人を殺害した原住民らの拠点である牡丹(ぼたん)社を陥落させました。

 遠征軍の戦死者は12人、負傷17人。このほか全軍3658人のうち、伝染病や風土病とくにマラリアなどによる病死者が561人に上りました(毛利敏彦『台湾出兵』)。現地兵士は、伝染病に苦しみ、悲惨な状況にあったのです。

緊迫の日清関係

 清朝は、日本にどう対応したのでしょうか。

 清朝皇帝は6月24日、日本の即時撤兵を要求せよ、との勅命をくだし、強硬な態度に出ます。7月には、総理衙門(がもん)(清朝外務省)が、駐清公使の柳原に対し、台湾出兵について正式に抗議しました。

 清朝は、台湾出兵は日清修好条規違反としていました。同条規第1条は、「両国所属の邦土」への「侵越」を禁じており、日本が清朝の邦土である台湾に武力侵攻したことは許されないというわけです。

 日清両国間の対立が深まります。

 日本政府内では、台湾から撤兵するか、清国と開戦するか、で意見が分かれます。大隈は開戦を強く主張しました。伊藤は撤兵論だったようです。陸軍卿の山県有朋は、早期撤兵・日清戦争回避の立場で、陸軍内の将官の多数が開戦は不可としていました。

 政府は7月8日の閣議で、対清国交渉では「和親」保持に努めるのはもちろんだが、もしも、清国が戦端を開くならば、「交戦()むを得ざるべし」(『明治天皇紀(第三)』)と決しました。

 ただ、交渉にあたる柳原駐清公使への訓令には、占領地を譲与する代わりに償金を獲得して、撤兵するとしていました。

 交渉が妥結しない場合は開戦も辞せず、という方針のもと、政府は8月1日、大久保を全権弁理大臣として清国に派遣することを決定します。

 大久保には、交渉で「和戦いずれかを決する」権限が与えられました。台湾出兵という、自らまいた種を刈る形になった大久保の交渉に臨む姿勢は、「あくまで避戦であった」(勝田政治『<政事家>大久保利通』)ということです。

大久保、北京入り

 大久保は9月10日、北京入りしました。お雇い外国人であるフランスの法学者ボアソナードが顧問として同行しました。

 日清交渉は、日本側から大久保、柳原ら、清朝側から恭親王(きょうしんのう)、文祥らがそれぞれ出席して14日からスタートしました。が、案の定、難航します。

  • 北京会談の模様(国立国会図書館ウェブサイトから)
    北京会談の模様(国立国会図書館ウェブサイトから)

 日本側は、国際法の基準に照らせば、台湾の原住民の「生蕃」には、清朝の統治が及んでおらず、出兵は日本の「義挙(ぎきょ)」であると主張します。

  • ボアソナード
    ボアソナード

 これに対して、清朝側は、台湾が中国に属するのは内外に周知のことであり、生蕃は、清朝流のやり方で治めている。清国領である同地への出兵は、日清修好条規に違反していると反論します。

 結局、国際法(万国公法)を盾にする日本側と、日清2国間条約を根拠とする清朝側との議論は、交わることがありませんでした。交渉は暗礁に乗り上げ、10月25日、大久保は清朝側に帰国を通告します。

 しかし、この前後、イギリスの駐清公使・ウェードが仲介に入ります。ウェードによる精力的な斡旋(あっせん)の結果、日清双方は、「談判破裂」を乗り越え、27日、調停案を受け入れました。

 31日に調印された「互換(ごかん)条款(じょうかん)(協定)」等には、日本の出兵は「保民義挙」のためであり、清国は「蕃地」での遭難者と遺族に「撫恤(ぶじゅつ)(いつくしみあわれむという意味)銀」10万両を即時払いすること、日本軍が「蕃地」に設営した道路・建物は40万両で清国が譲り受けることが盛り込まれました。日本軍は12月20日までに撤兵することも決められました。

 とくに注目すべきは、協定に「台湾の生蕃、かつて日本国属民等に対し、(みだ)りに害を加えたるをもって」という表現が使われことです。これは、清国側が「琉球人は日本国民である」という日本の主張を間接的に認めたことを意味していました。

日本外交の勝利

 北京交渉で大久保は、清朝側から大幅な譲歩を勝ち取り、戦争を回避して外交的な勝利を収めました。

 伊藤は、木戸宛ての書簡で、「此上(このうえ)なき国家の大幸」であり、それも大久保の「大功」であると高く評価しました。台湾出兵問題で閣外に去っていた木戸も、「雀躍(じゃくやく)に堪えず」と、その功績を(たた)える手紙を大久保に書き送りました。

 清国から得た賠償金に関して、一つのエピソードがあります。

  • イギリスの駐清公使ウェード
    イギリスの駐清公使ウェード

 大久保は、計50万両のうちの40万両は、清朝皇帝に「謝却」(返却)しようと考えていました。参議・黒田清隆あての手紙によると、大久保は、返却金は原住民の開化と航行の安全のために充てることを希望し、この欧米では例のない措置によって、我が国の盛名を世界に輝かすことができると書いていました。ただ、これは実行されずに終わります。(清沢洌『外政家としての大久保利通』)。

 もちろん、日清開戦や台湾領有にまでエスカレートしていた強硬派は、この決着に不満を示しました。また、賠償金をはるかに上回る戦費を要したことへの批判もくすぶり、大久保は「ウェード公使の助力によってなんとか政治生命を保てた」という歴史家の評価もあります。さらに、台湾出兵が、その後の「日・清対決」に道を開いたことも事実です。

 11月27日、大久保らが横浜港に帰着すると、国旗を掲げた「内外人民(むれ)を成す」(大久保日記)ほどの歓迎陣が、一行を迎えました。当時の英米の新聞も、大久保の交渉手腕を高く評価する記事を掲載しました。

 大久保は、協定署名の10月31日の日記に、「是迄(これまで)焦思(しょうし)苦心、言語の尽くす所にあらず。生涯又如此(かくのごとき)事あらざるべし」、北京を立った11月1日の日記には、「自ら心中快を覚ゆ」と記し、難しい交渉を仕上げた大久保の深い安堵(あんど)が伝わってきます。

 結果的に大久保の声価は、一気に高まり、自らの権力基盤を固めることになるのです。

【主な参考・引用文献】

▽萩原延壽『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄11 北京交渉』(朝日文庫)▽勝田政治『明治国家と万国対峙』(角川選書)▽同『<政事家>大久保利通』(講談社選書メチエ)▽毛利敏彦『台湾出兵―大日本帝国の開幕劇』(中公新書)▽同『大久保利通』(同)▽坂野潤治『日本近代史』(ちくま新書)▽清沢洌『外政家としての大久保利通』(中公文庫)▽井上清『日本の歴史20 明治維新』(中公文庫)▽江村栄一校注『日本近代思想大系9 憲法構想』(岩波書店)▽岡本隆司『中国の誕生―東アジアの近代外交と国家形成』(名古屋大学出版会)▽家近良樹『西郷隆盛』(ミネルヴァ書房)▽宮内庁『明治天皇紀』第三

2018年3月28日05:20 Copyright © The Yomiuri Shimbun
プロフィル
浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。