<西郷隆盛と大久保利通>第6回~琉球王国の歴史に幕

清朝が受けた衝撃

 清朝は、その周辺に、自治的統治を認めた「藩部(はんぶ)」と呼ばれる地域と、朝貢(ちょうこう)冊封(さくほう)関係にある「属国(ぞっこく)」をもっていました。

 藩部は、モンゴルやチベット、新疆(しんきょう)などをさしており、属国は、朝鮮や琉球(沖縄)、ベトナム、シャム(タイ)、ビルマ(ミャンマー)などです。ただ、属国といっても、清朝は、一般的にその国の内政や外交に直接、干渉することはなかったようです。

 これに対して、交易・商取引関係にある国々は「互市(ごし)」と呼ばれ、日本や西洋の国々がこれにあたります。

 こんな中国中心の東アジアの国際秩序の下、日本による台湾出兵(1874年)は、清朝に大きな衝撃を与えました。それは小国にすぎない隣国の軍事侵攻を未然に防ぐことができなかったからです。

  • 恭親王(1860年11月撮影、Digital image courtesy of the Getty's Open Content Program)
    恭親王(1860年11月撮影、Digital image courtesy of the Getty's Open Content Program)

 日清の北京交渉で、調停案を受け入れざるをえなかった総署大臣・恭親王(きようしんのう)は、上奏(じょうそう)文で「わが海疆(かいきょう)の武備が(たの)むに足るものであったら、決裂を(おそ)れる事もなかったろう」と述べています。

 海洋防備をおろそかにしたため、「不法」の日本に譲歩せざるをえなかった、というわけです。

 清朝は、これを教訓に海防強化を本格化させ、直隷(ちょくれい)(現在の河北省)総督・李鴻(りこうしょう)章をトップに北洋海軍の建設に着手します。

 1874年に海防増強計画が策定されると、翌75年から留学生をイギリスとフランスに派遣して海軍術を学ばせます。鉄甲艦なども輸入し、旅順(りょじゅん)威海衛(いかいえい)に軍港を建設します。

 こうして編成されることになる北洋艦隊は、のちの日清戦争(1894~95年)で日本艦隊と雌雄(しゆう)を決することになるのです。


藩属体制の危機

  • 李鴻章(Digital image courtesy of the Getty's Open Content Program)
    李鴻章(Digital image courtesy of the Getty's Open Content Program)

 北京交渉で71年の日清修好条規が役に立たなかったことは、それを締結した李鴻章にとって容易ならざる事態でした。

 同条規第1条の「両国所属の邦土への不可侵」の規定は、中国沿岸や朝鮮など「属国」を含めた広範な「邦土」への不可侵を、日本に義務づけようとしたものでした。(岡本隆司『清朝の興亡と中華のゆくえ』)

 ところが、日本側は、そんな解釈にはお構いなく、台湾南部は「無主の地」だとして派兵してきました。

 清朝は、こうして日清修好条規が通用せず、明治維新以降、富国強兵を進める日本を新たな「脅威」とみなすことになるのです。

 このころ、清朝は、中央アジアにおけるロシアの勢力拡大とイスラム教徒の反乱に苦慮していました。

 日清修好条規が締結された71年には、ロシアが、新疆で発生したイスラム教徒の反乱に乗じてイリ地方を占領します。

  • 左宗棠
    左宗棠

 清朝は、陝甘総督(せんかんそうとく)左宗棠(さそうとう)(1812~85年)にイスラム教徒の鎮圧を命じます。彼は、太平天国の乱で、義勇軍の「楚軍(そぐん)」を率い、曾国藩(そうこくはん)の「湘軍(しょうぐん)」、李鴻章の「淮軍(わいぐん)」とともに反乱軍と戦い、勝利した人物です。

 左宗棠は、中国北西部の陝西(せんせい)省から甘粛(かんしゅく)省へと軍を進め、73年には平定します。

 さらに新疆まで兵を進めようとした時、日本の台湾出兵が起きました。その際、李鴻章は、海防の強化に力を注ぐため、ロシアとイギリスの進出が著しい新疆は放棄すべきだと提案しましたが、却下されました。


琉球の日本専属化

 このあと、清朝は、日清両属の琉球の日本専属化を図る、日本政府の攻勢に直面します。

 北京交渉で日清間が結んだ協定には、「琉球人は日本国民」と解釈できる表現が使われていました。日本政府は、これを論拠に「琉球は日本の版図(はんと)」だとして帰属問題の決着を急いだのです。

  • 大久保利通から太政大臣・三条実美にあてた建議(国立公文書館蔵)
    大久保利通から太政大臣・三条実美にあてた建議(国立公文書館蔵)

 台湾出兵中の74年7月、日本政府はまず、琉球案件の所管を外務省から内務省へと移しました。

 さらに同12月、北京から帰国した内務卿・大久保利通は、日清協定を踏まえて「清国との関係を一掃」する措置――すなわち、琉球を日本の領土に完全に組み込むことを建議し、承認されます。

 次いで大久保は、内務大丞(だいじょう)・松田道之(みちゆき)を処分官として那覇に派遣。75年7月14日、松田は首里城(しゅりじょう)を訪問し、琉球藩王代理の今帰仁(なきじん)王子に会い、政府の命令を伝えました。

  • 今帰仁王子(国立国会図書館ウェブサイトから)
    今帰仁王子(国立国会図書館ウェブサイトから)

 それは、清朝への朝貢使・慶賀使の派遣禁止、清朝による冊封(さくほう)(王の位を受けること)の廃止を厳命していました。

 そのほか、琉球藩内ではすべて明治の年号を奉じることや、日本への謝恩のために藩王が上京すること、日本の刑法の施行、軍の鎮台分営の設置なども求めていました。

 琉球側は、これまで、琉球藩の設置(1872年)の時も、琉球漂流民殺害事件をめぐる対清交渉(73年)の際も、これらが琉球処分への布石であるとは受け止めず、政府側の説明をうのみにして、のんきにかまえていたようです。

 ですから、この清国との関係を一切断つよう命じた松田処分官の言葉に、琉球側は驚愕(きょうがく)します。

 それでも、琉球当局は、刑法施行や分営設置など一部の要求は受け入れましたが、朝貢や冊封の禁止などは、「清朝との国際的信義上、出来るものではない」と拒絶しました。とくに清国に近い、藩内の「親清派」(頑固党)の人々は強く抵抗しました。 

 結局、琉球当局による東京での直接の陳情が許され、75年9月には特使が派遣されます。彼らは、清朝との断絶や琉球の国体・政体の変更は望まないことを繰り返し陳情しますが、日本政府は受け付けませんでした。

 日本政府は76年5月、内務少丞(しょうじょう)木梨精一郎(きなしせいいちろう)に琉球藩在勤を命じ、同藩がもっていた司法権を内務省出張所に接収します。これに伴い、清国への渡航は同出張所の許可がなければ不可能になります。

琉球、清朝に密使

  • 尚泰(国立国会図書館ウェブサイトから)
    尚泰(国立国会図書館ウェブサイトから)

 琉球藩王・尚泰(しょうたい)は、同年12月、清国・福州に密使として幸地(こうち)親方らを派遣します。

 幸地らは翌77年2月、藩王の密書を清朝側に提出するとともに、これまでの経緯を報告し、救援を求めました。

 一方、東京駐在の琉球藩の役人は、日本に赴任してきた清国初代駐日公使・何如璋(かじょしょう)と連絡をとり、アメリカ、イギリス・オランダの駐日公使にも支援を要請、問題の国際化を図ろうとします。

 清国の何公使は、外交交渉と同時に、琉球に軍艦を派遣して日本政府の譲歩を迫る強硬策を建議しています。

 同年10月、何公使は、寺島宗則外務卿に対し、日本の措置は「隣交(りんこう)(そむ)き、弱国を(あざむ)く」行為だと非難しました。寺島は「暴言だ」と反発し、交渉は停滞します。

 なお、日本国内ではこの年の2月、西郷隆盛を首領とする士族の大反乱(西南戦争)が起き、政府は半年間、その鎮圧に追われていました。

琉球処分

  • 松田道之(那覇市歴史博物館所蔵)
    松田道之(那覇市歴史博物館所蔵)

 78年5月、琉球処分を指揮してきた内務卿・大久保利通が暗殺され、伊藤博文が後任に就きます。

 伊藤は、国際問題化を避けるため、駐日の各国大使に調停を求めていた琉球藩の役人を東京から退去させる一方、琉球処分官の松田を再び琉球に派遣します。

 79年1月、松田は那覇入りします。75年6月の初訪問から3年半の月日が経過していました。

 松田は到着後、直ちに首里城を訪ね、藩王代理の今帰仁王子に対し、密航や外国公使への働きかけを非難したうえで、日本政府の命令に従うよう、最後通告ともいうべき「督責(とくせき)(ただしせめること)(しょ)」を手渡しました。

 これに対し、琉球側は、「遵奉(じゅんぽう)(したがい、固く守ること)(しょ)」を提出しませんでした。松田は帰京すると、琉球処分の早期断行を上申し、政府は、軍隊の派遣と、松田に3回目の出張を命じました。


  • 首里城正殿(国立国会図書館ウェブサイトから)
    首里城正殿(国立国会図書館ウェブサイトから)

 松田は79年3月25日、内務省の官吏30余人、警察官160余人、熊本鎮台分遣隊400人を率いて那覇に上陸しました。松田は27日には首里城に乗り込み、今帰仁王子に対し、「廃藩置県」(琉球藩の廃止と沖縄県設置)の太政大臣達書を自ら朗読しました。

 4月4日、琉球藩を廃し、沖縄県を置くことが全国に布告されます(琉球処分)。

 県名を沖縄にしたのは、中国からあたえられた琉球をさけ、沖縄人自身の呼び名にもとづいたからです(宮城栄昌『沖縄の歴史』)。

 旧藩王尚泰は明治政府の命により、沖縄を離れ、6月、上京しました。

 15世紀に成立し、400年に及んだ琉球王国は、ここに歴史の幕を閉じます。

属国ドミノ現象

 毛利敏彦著『台湾出兵』によれば、清国公使の何如璋は、日本の琉球併合を阻止すべきだと本国に警鐘を乱打していました。琉球の喪失を黙認すれば、それは決して「一琉球」にとどまらず、朝貢国・朝鮮の喪失へと連動し、<ドミノ現象>のあげく、朝貢国体制が総崩れになることを恐れていたというのです。

 ドミノ現象とは、ある出来事が起きると、次々とドミノ(将棋)倒しのように、連鎖的によく似た事件が起こることをいいます。

 日本にすれば、近代国民国家として存立するには、国家主権の及ぶ範囲(国境)の画定が必要で、琉球処分は避けて通れませんでした。

 ところが、その日本の行動は、大清帝国を支える華夷(かい)秩序への挑戦を意味していました。そしてこの<ドミノ現象>は清朝の杞憂(きゆう)で終わらず、朝鮮やベトナムにおいて現実化していくことになります。

【主な参考・引用文献】

 ▽岡本隆司『中国の誕生―東アジアの近代外交と国家形成』(名古屋大学出版会)▽同『叢書 東アジアの近現代史 第1巻 清朝の興亡と中華のゆくえ―朝鮮出兵から日露戦争へ』(講談社)▽岩波講座『東アジア近現代通史 第1巻 東アジア世界の近代19世紀』(岩波書店)▽下村冨士男編『明治文化資料叢書 第4巻 外交編』(風間書房)▽安里進ほか『沖縄県の歴史』(山川出版社)▽新里金福・大城立裕著、琉球新報社編『沖縄の百年 第2巻=歴史編 近代沖縄の歩み(上)』(太平出版社)▽宮城栄昌『沖縄の歴史』(琉球新報社)▽高良倉吉『琉球王国』(岩波新書)▽毛利敏彦『台湾出兵』(中公新書)▽北岡伸一・歩平編『「日中歴史共同研究」報告書 第2巻 近現代史篇』(勉誠出版)▽波多野善大編『中国文明の歴史10 東アジアの開国』(中公文庫)

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2018年4月11日05:20 Copyright © The Yomiuri Shimbun
プロフィル
浅海 伸夫 (あさうみ・のぶお
1982年から18年間、読売新聞の政治部記者。その間に政治コラム「まつりごと考」連載。世論調査部長、解説部長を経て論説副委員長。読売新聞戦争責任検証委員会の責任者、長期連載「昭和時代」プロジェクトチームの代表をつとめた。現在は調査研究本部主任研究員。