文化

没後20年、ロングセラー続ける星野道夫の秘密

メディア局編集部 伊藤譲治
 アラスカを拠点に活動した写真家で 稀有 ( けう ) のエッセイストだった星野道夫が、テレビ取材に同行中、ロシア・カムチャツカ半島のクリル湖畔でヒグマに襲われ、亡くなってからこの8月で20年になる。没後の1999年に文庫化された代表作のひとつ『旅をする木』はこれまでに34刷、21万5千部に達するなど、星野の著作はロングセラーを続けている。なぜ星野の著作は人々をひきつけるのか。代表作を担当した元編集者二人に作品誕生の経緯や読まれ続ける理由について聞いた。

大学1年の夏、アラスカの写真集と運命的な出会い

  • カリブーの移動を待つ星野道夫(撮影:星野道夫 写真提供:星野道夫事務所)
    カリブーの移動を待つ星野道夫(撮影:星野道夫 写真提供:星野道夫事務所)

 星野は1971年、大学1年の夏、新聞に掲載されたアラスカの地図を偶然目にし、アラスカに強い憧れを抱くようになった。アラスカに関する資料を集めていたある日、東京・神田の古書店で見つけた一冊の写真集との運命的な出会いが、その後の人生を決定づける。ナショナル・ジオグラフィックから出ていた写真集『ALASKA(アラスカ)』だった。

 写真集の中でも特に、北極海沿岸に浮かぶ島にあるイヌイットの村・シュシュマレフの空撮写真に魅せられた。シュシュマレフ村に行きたいと熱望した星野は、手紙を出す。住所も村長の名前も知らなかったため、あて名は「メイヤー(村長)、シュシュマレフ、アラスカ、USA」とだけ英語で書いた手紙だった、という。

 手紙を出したことも忘れていた半年後、一通の外国郵便が届く。「手紙を受け取りました。夏はトナカイ狩りの季節です。いつでも来なさい……」。約半年後の大学2年の夏、星野はシュシュマレフ村を訪ね、イヌイットの家族と約3か月間過ごした。この最初のアラスカ体験が、星野の人生に大きな影響を与えた。

 慶応大学を卒業し、2年間、動物写真家・田中光常の助手を務めた後、78年、アラスカ大学野生動物管理学部に入学。以後、アラスカを拠点にしながら、18年間にわたって写真と文章という二つの方法で自然と人間を見つめ続けた。

 では、どんなエッセーを書く人だったのか。たとえば、ムースの頭を煮て作った聖なるヘッドスープを食べ、先住民が死者の御霊(みたま)を送り出す場面を描いた次のような文章――。

 <生きる者と死す者。有機物と無機物。その境とは一体どこにあるのだろう。目の前のスープをすすれば、極北の森に生きたムースの身体は、ゆっくりと僕の中にしみこんでゆく。その時、僕はムースになる。そして、ムースは人になる。次第に興奮のるつぼと化してゆく踊りを見つめながら、村人の営みを取りかこむ、原野の広がりを思っていた>(新潮文庫『イニュニック[生命]』から)

 あるいは、次のような手紙形式のやわらかな文章――。

 <頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。アラスカに暮らし始めて十五年がたちましたが、ぼくはページをめくるようにはっきりと変化してゆくこの土地の季節感が好きです。

 人間の気持ちとは可笑(おか)しいものですね。どうしようもなく些細な日常に左右されている一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きてゆけるのでしょう>(文春文庫『旅をする木』から)

 深い経験に裏打ちされた星野の文章は「透明感のある文章」「安らぎを感じさせる文章」とも評される。では、その著作はどのようにして生まれたのか。

2016年8月9日16:34 Copyright © The Yomiuri Shimbun