生活

オリンピック選手に学ぶ「競争社会を生き抜く力」(上)

慶應義塾大学名誉教授 池井 優
 東京五輪開催まであと3年半、 平昌 ( ピョンチャン ) 冬季五輪まではたった1年だ。スポーツ界最高峰の大舞台は、時に「魔物」と呼ばれるほど過酷な運命が待つ場でもある。栄光を手にした者、逃した者、舞台に立つことさえできなかった者……。死力を尽くしたアスリートたちの姿から、現代のサラリーマンたちも学ぶべき点が多い。そのエッセンスを、スポーツと教育や文化、社会との関わりを長年論じてきた池井優・慶應義塾大学名誉教授が解説する。

 五輪を頂点とするスポーツも、多くの人々が日々従事するビジネスも、ルールに(のっと)った競争の世界である点は同じです。ルールは公平でも、背負った環境や条件は人それぞれに異なり、けっして平等ではない点も共通しています。どちらの世界でも、問題はそうしたハンデ(ハンディキャップ)をいかに克服するか、いかに工夫して補い、生きていくかなのです。その象徴的な一人として、水泳の古橋広之進を挙げたいと思います。

相次いだ悲運とハンデ

  • 「フジヤマのトビウオ」の異名を取った古橋広之進
    「フジヤマのトビウオ」の異名を取った古橋広之進

 日本が敗戦に打ちひしがれていた昭和20年代(1945~54年)を中心に、水泳自由形の400メートル、800メートル、1500メートルで計33回も世界新記録を樹立し、全米水泳選手権大会でアメリカ人選手に圧勝して日本人を熱狂させた古橋は、相次ぐ悲運やハンデと戦い、克服し続けた人物でした。

 古橋は1928年、現在の浜松市に生まれました。幼い頃から浜名湖で泳ぎ、卓越したスピードは「豆魚雷」と呼ばれるほどでしたが、戦争の激化により中学進学後は水泳を続けることができませんでした。さらに不運は重なり、勤労動員で作業中、旋盤に左手の中指を挟まれ、第一関節から先を失ってしまいました。

 「もう泳げない」と、一時は落ち込んだ古橋でしたが、日本大学に進学後、水泳を再開。左手のハンデを克服するため、右手を徹底して鍛え上げたのです。左手は添える程度で、お世辞にもきれいなフォームとは言えず、「変則泳法」と呼ばれましたが、古橋自身は「アクシデントに遭わず、ただ漫然と泳いでいたら、とても『世界』には手が届かなかっただろう」と回顧しています。

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