文化

元祖・働き方改革、天智天皇が使った切り札は?

読売新聞編集委員、BS日テレ「深層NEWS」キャスター 丸山淳一

宴会おねだり、借金強要…天平のトンデモ上司たち

 時刻による官僚の勤怠管理は奈良時代にも引き継がれ、「漏刻博士」という専門職が置かれた。朝廷の役人は、午前6時30分に内裏の大門が開くまでに登庁し、書類の作成や写しなどにあたった。正式な勤務は正午の太鼓までだったが、午後も仕事が終わるまで残業する。残業手当はなく、サービス残業が当たり前だったという。下級役人の多くは単身赴任で、地元に帰れるのは年2回の特別休暇だけ。身内の不幸や法事の時は届け出れば休めたが、今と違って忌引の有給休暇はなかったらしい。

 仏教を広げようとした聖武天皇(701~756)が経典を書き写す仕事を大量発注したため、深夜まで出来高払いの写経のアルバイトをしていた役人もいた。大きなミスをした写経担当の役人に対し、上司が「もみ消してほしければ宴会を開いて酒を飲ませろ」と要求したり、上司が「月借銭(げっしゃくせん)」と呼ばれた月利15%の高金利ローンを無理やり部下に借りさせたりした記録が正倉院に残っている。下級役人は薄給の上に、相当厳しい職場環境に耐えていたようだ。

「やみくもに働け」じゃなかった!二宮金次郎の教え

 定時法は平安時代末にはすたれてしまい、太陽の動きで時間を決める「不定時法」が主流となる。では、時間に正確で勤勉な日本人像は、いつごろ定まったのか。経済学者の速水融(はやみあきら)さんは、江戸時代中期の農村にその源流があると主張している。

 速水さんは、幕府がキリスト教禁制を徹底させるために寺院に出させた信徒名簿(宗門改帳(しゅうもんあらためちょう))を丹念に調べた。すると、飢饉による大凶作の時を除き、すでに開墾されつくして田畑が増えていない平野部や、農耕に使う家畜は減った地域でも人口が増えていたことが分かった。狭い田畑に労働力を集約して収穫量を増やしたためで、欧州が家畜を増やしたり農地を大規模化したりして収穫量を増やしたのとは逆の動きが起きていたというのだ。

  • 薪を背負い、本を読みながら歩く二宮金次郎の像。「勤勉」のシンボルとして各地の学校に立てられた
    薪を背負い、本を読みながら歩く二宮金次郎の像。「勤勉」のシンボルとして各地の学校に立てられた

 速水さんは勤勉による経済成長を「勤勉革命」と名付け、『歴史人口学で見た日本』(文春新書)のなかで、この勤勉革命を完成させたのが、収穫増や冷害対策の農業指導に努めた二宮金次郎(尊徳)(1787~1856)だったとみている。

 「貧者は昨日のために今日働き、富者は明日のために今日働く」

 やみくもに働けばいいというものではなく、将来につながる働き方をせよ、というこの言葉は、尊徳が質素倹約だけでなく、豊かになるための前向きな働き方を拡げようとした思いの表れともとれる。昔はどこの小学校にもあった薪を背負いながら本を読んで歩く二宮金次郎像は「今の教育方針に合わない」といった理由で撤去されつつあるが、一流の経営コンサルタントとして再評価すべきかも知れない。

 一方、江戸時代の都市での庶民の暮らしは厳しかったようだ。速水さんの分析では、衛生面の不備もあって江戸の住民の死亡率は高く、農村の余剰人口をアリ地獄のように受け入れ続けないと人口が維持できなかった。商家の丁稚(でっち)や織物工場の織り手などは休日も盆暮れのみ、労働条件も劣悪な「ブラック職場」だったとみられる。

2018年6月9日05:20 Copyright © The Yomiuri Shimbun