冬のオリンピックこぼれ話

“日の丸飛行隊”まさかの失速【1972年 札幌】

 1924年(大正13年)の第1回大会以来、今回の韓国・ 平昌 ( ピョンチャン ) で23回目を迎える冬季オリンピック。雪と氷の祭典の長い歴史には、笑いや涙を誘うエピソードもたくさん詰まっています。読売新聞の過去の記事を振り返り、異色の選手、思わぬ結末、式典の舞台裏など、観戦の楽しみが増す「こぼれ話」を拾い上げ紹介します。

  • 90メートル級ジャンプ、笠谷の練習を一目見ようと猛吹雪の中、大倉シャンツェにつめかけた観衆。吹雪が強すぎて、結局ゴールデン・アーチは見られなかったが……(1972年2月8日付夕刊「カメラ・ニュース」)
    90メートル級ジャンプ、笠谷の練習を一目見ようと猛吹雪の中、大倉シャンツェにつめかけた観衆。吹雪が強すぎて、結局ゴールデン・アーチは見られなかったが……(1972年2月8日付夕刊「カメラ・ニュース」)

 吹雪の中「カサヤ」求めて――そんな見出しで、雪で真っ白になった人々をとらえた1枚の写真が、1972年(昭和47年)2月8日、読売新聞夕刊に大きく載りました。日本で初めて開かれた冬の祭典・札幌オリンピック。大会6日目のこの日、降りしきる大雪の中、スキー・ジャンプ会場の大倉シャンツェ(大倉山ジャンプ競技場)には、日本人選手の練習風景だけでもひと目見ようと、朝から大勢の人たちが詰めかけました。

吹雪の中、お目当てはエース笠谷

 お目当ては日本のエース、笠谷幸生(かさやゆきお)選手(当時28歳)でした。そのわずか2日前、70メートル級(現・ノーマルヒル)ジャンプで、笠谷、金野昭次(こんのあきつぐ)青地清二(あおちせいじ)の日本人3選手が金、銀、銅メダルを独占。日の丸3本を揚げる空前の快挙を成し遂げ、列島が歓喜に包まれたばかりでした。

  • 札幌五輪第7日。90メートル級ジャンプ公式練習。スタート台へ向かう笠谷幸生選手(1972年2月9日撮影)
    札幌五輪第7日。90メートル級ジャンプ公式練習。スタート台へ向かう笠谷幸生選手(1972年2月9日撮影)

 続く90メートル級(現・ラージヒル)でもメダルをと、笠谷選手ら“日の丸飛行隊”への期待が高まったのは、言うまでもありません。吹雪の中でも練習を見守ろうと駆けつけた人々の姿から、当時の熱気が伝わってくるようです。

 笠谷選手ら日本ジャンプ陣は、選手村でも人気の的でした。「出入り口には、連日百人近いファンがおしかけ、一斉にサインをせがむ。送迎の大型バスも囲まれて動きがとれなくなるほど」「外国選手からも『日本の飛行機カサヤ・プリーズ』とノートを出される」などと、読売新聞は伝えています。

 注目され落ち着かない様子の選手たちを、次の90メートル級に向けていかにリラックスさせるか、日本のコーチ陣らは苦心したようです。

痛恨の2本目 メダルの重圧……

 そんな中で迎えた2月11日の90メートル級ジャンプの大一番。日本勢4選手はその朝、「みな同じように食欲がなかった。笠谷はほんの一杯だけ」と、緊張しきった様子だったようです。

 今度は何本の日の丸が……と期待を膨らませ、大倉山のスタンドを埋めた4万人超の大観衆。しかし、日本勢は力を出し切れず、メダル争いから次々と脱落します。

 それでも、ただ一人、笠谷選手が1本目で2位につけ、逆転の金メダルに望みをつなぎました。

  • 札幌五輪90メートル級ジャンプ 笠谷選手の2本目。4万人の観衆の頭上へ飛び立ったが、踏み切りのタイミングがずれ「金」の望みは消えた(1972年2月11日撮影)
    札幌五輪90メートル級ジャンプ 笠谷選手の2本目。4万人の観衆の頭上へ飛び立ったが、踏み切りのタイミングがずれ「金」の望みは消えた(1972年2月11日撮影)

 大歓声の中の2本目のジャンプ。助走の中間付近で下から風が吹き始め、「その瞬間、七十メートル級のことが頭に浮かび、完全なジャンプを、という気になった。これがいけなかった」と、笠谷選手は振り返りました。

 力みからか踏み切りのタイミングがずれ、空中でもバランスを崩します。85メートルで落下するまさかの失敗ジャンプで、7位という結果に。金野選手ら他の日本人3選手は10位台に終わりました。「(観衆のため息が)山の斜面にアラシのようにこだました」と、落胆ぶりを読売新聞は伝えています。

 90メートル級の金メダルをつかんだのは、「気楽に飛べた」と語ったポーランドの19歳の新鋭、ボイチェフ・フォルトナ選手でした。

 「ご覧になった通りで、自分から付け加えることはありません」。試合後、潔く語った笠谷選手は、次のように続けました。「いま一番やりたいことはジャンプを離れて休むことです。いったん人間に戻ってまたジャンパーにかえります。次に飛ぶときも、やはり心臓が上がったり、下がったりすることでしょうが、それに耐えてこそいいジャンプができると思うし、そうしたいと思っています」

 “鳥人”と呼ばれた笠谷選手でさえ、最大の敵はやはりメダルの「重圧」でした。静かにジャンプ台を去る日本勢の表情は「むしろ晴れやかな感じだった」といいます。(データベース部 武藤泰之)

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2018年1月10日13:00 Copyright © The Yomiuri Shimbun